なぜ裕福でもない養父・養母が育てることになったのか?宝塚受験を決意したきっかけとは?朝ドラ『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子誕生秘話【2024年上半期BEST】

佐藤さん「大正時代、道頓堀、ミナミを中心に、アメリカの最新音楽であるジャズが流れていた」(写真提供:Photo AC)
2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2023年10月26日)

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2023年10月2日から放送が始まったNHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。その佐藤さんいわく、両親が未婚のまま生まれた静子が音吉・うめ夫婦の養女になったところから「笠置シヅ子伝説」は始まったそうで――。

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『ブギウギ』主人公のモデルの半生!『笠置シヅ子ブギウギ伝説』

笠置シヅ子はこうして生まれた

笠置シヅ子(本名・亀井静子)は、1914(大正3)年8月25日、香川県大川郡相生村に生まれた。

父は郵便局に勤めていた三谷陳平。母・谷口鳴尾は、三谷家で和裁を習いながら家事手伝いをしていたが、二人の結婚は認められずに、未婚のまま静子が生まれた。

ちょうどその頃、大阪から出産のために相生村へ帰郷していた亀井うめが、自分の子の授乳の合間に、静子にも添え乳をしてくれた。次第にうめは、静子に情がうつり、シングルマザーの鳴尾が女手一つで赤ちゃんを育てるのは大変だろうと、静子を養女にした。

養父・音吉は大阪で米や薪炭商をしており、のちに銭湯を営むこととなる。決して裕福ではなかったが、妻・うめが故郷から、二人の赤ちゃんを連れて帰ってきた時も「うわあ、どないしてん、双子かいな。こらぁ、えらいこっちゃ」と驚くも、静子を自分の娘として育てることにした。

音吉、うめ夫婦は芸事が好きで、静子は3歳の頃から、うめの勧めで日本舞踊、三味線などの習い事を始めた。1921(大正10)年、静子は下福島小学校への入学を機に、入籍時の亀井ミツエから、志津子へと改名した。この頃、音吉は風呂屋へと転業している。

1918(大正7)年、米の価格急騰に伴う暴動事件・米騒動が全国規模で発生、音吉も大打撃を受けて、近所に銭湯の売り物があったのを機に風呂屋を開業した。

静子は、銭湯の脱衣場を舞台に、幼い頃から習っていた踊りや歌を披露して、近所で評判になっていた。小学校では唱歌が得意で、成績はいつも甲だった。根っからのショウマンシップと度胸は、この頃に培ったものである。

この頃、一家は十三で銭湯を営んでいたが、小屋掛けの浪花節芝居に懇願されて、静子は子役として初舞台を踏んでいる。この時代、大阪市街には町内ごとに芝居小屋や小さな寄席があり、庶民の一夕の娯楽となっていた。

静子の少女時代、大阪にはモダン文化が花ざかり。大正時代、道頓堀、ミナミを中心に、アメリカの最新音楽であるジャズが流れていた。

のちの音楽のパートナー、服部良一

のちに、笠置シヅ子の音楽のパートナーとなる作曲家・服部良一(07〜93)も、大阪・天王寺に生まれ、幼い頃から、音楽が好きで作曲家を目指していた。

やはり芸事好きの家庭に育ったが、上の学校に進めるほどの経済的余裕がなく、姉の勧めで好きな音楽を演奏して給金がもらえる、千日前の「出雲屋少年音楽隊」に入隊したのが、1923(大正12)年のこと。

出雲屋は、大阪でたくさんの店舗を持っていたうなぎ屋のチェーン店。そこの若旦那が、新しもの好きで、音楽隊を結成して、話題作りをしていた。

巷にはジャズソングが流れ、バンドが最新の舶来音楽を演奏する。その活況を、のちに服部良一は「道頓堀ジャズ」と名付けた。

関東大震災の影響

服部少年が「出雲屋音楽隊」に入った日、1923年9月1日。関東一円を未曾有の大震災が襲った。

この時、亀井静子は9歳、志津子から静子に改名したのもこの頃である。またこの年、1923年には大阪道頓堀に、日本初の鉄骨・鉄筋コンクリート建築による映画館、大阪初の洋式劇場・大阪松竹座がオープンした。

静子が生まれた1914(大正3)年、宝塚少女歌劇第一回公演が、宝塚のプールを改造したパラダイス劇場で行われ、大変な評判となった(写真提供:Photo AC)

テラコッタが特徴的なネオルネサンス様式の正面玄関のデザインは、モダン大阪の象徴となり、映画上映だけでなく、幕間には松竹楽劇部によるステージが繰り広げられた。

これはすでに成功を収めていた宝塚歌劇団から振付師や作曲家を招聘して、宝塚少女歌劇に対抗しようというものであった。

関東大震災直後、被災して焼け野原となった東京や横浜に見切りをつけた財界人、文化人、芸術家たちが関西へやってきた。大阪に人と富と文化が集まってきたのである。

さらに仕事の場を失った東京のバンドマンたちを救済する意味もあって、道頓堀界隈の食堂、カフェーがバンド演奏を取り入れ、ダンスホールも急激に増えた。

宝塚歌劇音楽学校の受験を決意

話を少しもどす。

静子が生まれた1914(大正3)年、宝塚少女歌劇第一回公演が、宝塚のプールを改造したパラダイス劇場で行われ、大変な評判となった。1919(大正8)年には宝塚音楽学校が設立され少女歌劇の時代が華やかに幕を開けたのである。

大正時代から昭和の初めにかけての関西は「道頓堀ジャズ」「少女歌劇」のブームが到来していたのである。1927(昭和2)年、宝塚少女歌劇では、日本初のレビュー「モン・パリ〜吾が巴里よ!〜」が上演された。

ヨーロッパのレビューを取り入れ、幕なし16場というスピーディなスタイルは観客にとっても新鮮で、ここから本格的なレビュー時代が幕を開いたのである。

この年、静子は尋常小学校を卒業、13歳となっていた。

担任の先生から「無理に上の学校は勧めない。器用だから芸をみっちり修業するのもいいし、記憶が良いから看護婦になるのもよかろう」と言われ、近所の人に宝塚歌劇の話を聞いてその気になり、うめの勧めで宝塚歌劇音楽学校を受験することを決めた。

※本稿は、『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(興陽館)の一部を再編集したものです。

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