『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子が吉本創業者の息子と一つ屋根の下で暮らした期間はあまりに短く…不治の病と空襲の恐怖になぜ二人は打ち勝てたのか【2024年上半期BEST】

「結婚を誓った二人には、空襲の恐怖よりも、ひとときの逢瀬の幸福が勝った」(写真提供:Photo AC)
2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年01月04日)******NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく、笠置シヅ子と吉本穎右が一つ屋根の下で暮らせたのは、とても短い期間だったそうで――。

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【写真】「音楽の力ってすごい、と感じるようになった」と話す趣里さん

戦時下のロマンス

1943(昭和18)年、服部良一が映画『音楽大進軍』(3月18日・東宝)で「荒城の月」ブギを試していた頃、「笠置シヅ子とその楽団」は、日本各地で音楽ショウの巡業をしていた。

すでにジャズという言葉は軽音楽に置き換えられ、そのレパートリーも服部の編曲したインドネシア民謡や「アイレ可愛や」などのわずかの持ち歌だった。

この年の6月21日から10日間、シヅ子は名古屋・大須の太陽館に出演していた。

ちょうど御園座では新国劇「宮本武蔵」を上演しており、28日の昼、シヅ子は舞台の合間を見て辰巳柳太郎の楽屋に挨拶に行った。

そこで一人の青年と出会う。

「グレイの背広をシックに着こなした長身の青年で、ジェームズ・スチュアートのような端麗な近代感にあふれていました」(歌う自画像 私のブギウギ傳記・48年・北斗出版社)。

その青年は、吉本興業の創業者・吉本せいの息子・吉本穎右(えいすけ)、笠置よりも9歳下の19歳、早稲田大学の学生だった。シヅ子も穎右も大阪出身で東京暮らし。何かと心細いこともあり、仲の良い友達としてお互いの自宅を行き来するだけの交際がスタートした。

「笠置シヅ子とその楽団」の解散

1944(昭和19)年、「笠置シヅ子とその楽団」が不本意なかたちで解散し、シヅ子は服部良一はじめ、多くの人のサポートを受けてフリーの歌手となった。

この頃になると各地の劇場は次々と閉鎖され、勤労動員の工場への慰問や、地方の小さな芝居小屋などにも出演していた。

『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(著:佐藤利明/興陽館)

この年1月11日の東京新聞にこんな広告が出ている。銀座全線座で11日から「天下無双 春の実演 川田義雄二年ぶりの中央出演 川田義雄と笠置シヅ子の初顔合わせ」公演である。

川田義雄は、1937年から1939年にかけて「吉本ショウ」で大人気だった「あきれたぼういず」のリーダー。1939年、メンバーが新興キネマ演芸部に引き抜かれ、一人だけ吉本に残って、川田義雄とミルクブラザースを結成。

映画に舞台に、戦前を代表するコメディアンの一人だったが、脊椎カリエスの療養でしばらく休業していた。

その復帰を、笠置シヅ子との共演で華々しく行うというものだった。

銀座全線座は1938年開館の映画館だが、この頃は洋画の上映もできなくなり、実演にも力を入れていた。

ひとときの逢瀬の幸福

しかし戦局は悪化の一途をたどり、7月にはサイパン陥落、米軍は日本本土への爆撃の拠点をサイパンに置いた。

この頃、穎右は結核にかかって、学徒動員も免除された。当時、結核は不治の病とされ、今にも本土上空に米軍の大編隊が飛来するかもしれない。その恐怖と不安の中、この年の暮れに、二人は結ばれる。

8月15日、シヅ子は富山県高岡市で敗戦を知った。そして再び自由に歌える日々が訪れた(写真提供:Photo AC)

二人の関係を、シヅ子はこう語っている。

「『或る夜の出来事』のクラーク・ゲーブルとクローデット・コルベール、或いは鶴八、鶴次郎のように、最初のうちはお互いに好き勝手なことを言って、いがみ合っているうちに、その本態の噛み合いから掛け値なしの魅力がお互いにわかって、抜き差しならぬ関係となる──そんなプロットによく似てました。」(「歌う自画像 私のブギウギ傳記」48年・北斗出版)

結婚を誓った二人には、空襲の恐怖よりも、ひとときの逢瀬の幸福が勝ったのである。

それぞれの戦後が始まる

この頃、シヅ子は養父・音吉と二人暮らしをしていた。

養母・うめが病没してほどなく理髪店を閉めた音吉は、大阪で一人暮らしていたが、それでは不自由だろうと東京へ呼び寄せていたのである。

1945(昭和20)年5月15日、3月10日に続く東京大空襲で、シヅ子の三軒茶屋の自宅が全焼してしまう。

その日、シヅ子は京都花月で公演中だったが、何もかも失ってしまい、音吉は郷里である香川県引田に帰郷することに。

この時の空襲で、市ヶ谷にあった穎右の家も焼けてしまった。住む家がなくなった二人のために穎右の叔父で、吉本興業常務・東京支社長の林弘高のはからいで、シヅ子と穎右は、林家の隣家のフランス人宅に、年末まで仮住まいをした。

笠置シヅ子と吉本穎右が、一つ屋根の下で暮らしたのは、日本が戦争に敗れた8月15日を挟んだ数ヶ月間のみだった。

8月15日、シヅ子は富山県高岡市で敗戦を知った。そして再び自由に歌える日々が訪れた。進駐軍が銀座を闊歩し、ラジオからはジャズが再び流れ、灯火管制から解放された夜の街には、少しずつだが赤い灯、青い灯がともり始めた。

有楽町の日本劇場は、戦火が激しくなった44年に閉鎖されて、風船爆弾の工場となっていたが、11月22日、晴れて再開することとなった。

こうして 「スウィングの女王」笠置シヅ子は、日劇再開第1回公演「ハイライト」二十景(作・演出・宇津秀男)に出演。

軍属、報道班員として上海で音楽活動をしていた服部良一も12月、最後の引き揚げ船で帰国した。

こうして、それぞれの戦後が始まり、笠置シヅ子と服部良一は、再び音楽のパートナーとして共に舞台、そしてレコードを制作していくこととなる。

※本稿は、『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(興陽館)の一部を再編集したものです。

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