吉幾三と真田ナオキが『徹子の部屋』に登場「紅白歌手になって、俺から卒業しろよ! 酒の勢いで〈師弟〉になって6年の二人三脚」
2024年10月14日の『徹子の部屋』に歌手の吉幾三さん、真田ナオキさんが登場。吉さんにとって真田さんは一番下の息子のようにかわいい存在だそう。一方真田さんはデビュー前に離婚しており、「5人の子どもの父」という一面も。元妻への感謝も語る。『婦人公論』2021年8月24日号の対談を再配信します。
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始まりはお酒の席
吉 ナオキは本当にファン層が広いよね。俺の奥さんもその姉さんも大騒ぎしてるし、小学3年生の孫娘もナオキのことが大好き。俺のポスターの上に、ちゃっかりお前のポスターを貼ってる。(笑)
真田 ありがとうございます!
吉 お前と食事に行くときは、絶対にうちのも来るからね。「何でも頼みなさい」って世話を焼いて。そりゃあこんな素直でまじめな息子がいたら、いいよなあ。(笑)
真田 ご家族の皆様にまで可愛がっていただいて、本当に感謝しています。先生は、飲食の席では仕事の話をしませんね。
吉 うん、酒は楽しく飲むというのが俺の信条だから。
真田 僕はお酒が飲めないので憧れますし、うらやましいです。
吉 いやいや、飲まないほうがいい。酒は人をおかしくする。俺なんか昔は、山本譲二とお札をばら撒きながら飲み歩いたもんだけど、今ヒジョーに後悔してます!(笑)
真田 先輩方の武勇伝は、何度聞いても豪快で驚きます。
吉 以前、細川たかしが経営していた店に飲みに行ったときなんか、俺と細川と山本の3人でたいていの歌を歌えるもんだから、お客さんにマイクを回さないんだ。客が怒っちゃって、細川にも「もう二度と来るな!」って言われたよ。
本当に来るとは思っていなかった
真田 僕もお酒の席で先生に弟子にしていただきましたが、結構酔っていらしたので、覚えていらっしゃらないんじゃないかと心配していたんです。
吉 「お前面白いな。俺の弟子になるか?」って言葉は酒が言わせたんだ(笑)。まさか本当に来るとは思ってないからさ、今どきの若いもんが。嬉しかったよ。
真田 僕は2011年、東日本大震災の被災地で小学生の女の子が民謡を歌う姿に心を打たれて歌手になろうと決めたのですが、道は険しかった。先生に声をかけていただけて、幸せでした。
吉 いろいろ試行錯誤していたんだよな。
真田 はい。当時の僕の声は細くて特徴もない。悩んだ末に、声をつぶすことにしたんです。海辺で叫んだり、唐辛子をたくさん食べたり、日本酒でうがいをしたり。歌の先生には怒られましたが、貫きとおしました。
吉 さっき「今どきの若いもん」って言ったけどさ、歌に懸ける思いの強さはたいしたものだよ。
真田 そのおかげで、歌手の道が開けたのかなと思っています。
吉 つくづく思うけど、人生はいつ誰と出会うかだね。俺は、上京したとき歌のレッスンをしてくれた作曲家の米山正夫先生と、売れてない時期に出会った、歌手の千昌夫さん、この2人のおかげで今がある。千さんなんか、「俺ら東京さ行ぐだ」のレコーディング費用を出してくれるわ、借金を抱えていた俺に金を貸してくれるわ……。しかも後日その金を返しに行ったら、「嫁さんに何か買ってやれ」って、そのまま渡してくれたんだから。
真田 粋な方ですねえ。
吉 再来年にはデビュー50周年を迎える俺を、「元気か? フラフラ飲み歩いてるとコロナに罹っちゃうから気をつけろよ」って、昔と同じように心配してくれる。そういう《親父》がいるのは本当にありがたいし、嬉しいことだよ。
真田 本当ですね。
支えてくれた祖父母のために
吉 あとはやっぱり家族だね。俺がこうしていられるのも、妻と子どもたちのおかげ。もう子どもたちは自立して家を出たけど、皆で青森で暮らしていた頃は、東京から仕事を終えて帰って、また後ろ髪を引かれながら青森を後にしてさ……。大変だったけど、家族がいたから頑張れたんだよ。ナオキだってそうだろ?
真田 はい。僕の場合、社会人になったばかりで生活が苦しかった頃、「食事と寝る場所は用意してあげるから、うちへ来なさい」と親代わりになってくれたのが祖父母なんです。その後、祖母は認知症を発症してしまったので、一日も早く大舞台で歌う姿を見せたいと思っていました。
吉 そうか。じゃあ昨年末、日本レコード大賞の最優秀新人賞をいただけて良かったなあ。
真田 本当に。翌日祖母に電話したら、「似ている人が出ていると思ったら、あんただったの?」と言われましたけど(笑)。後日、受賞の盾も見せに行きました。両親やきょうだいも熱心に応援してくれていて、テレビ出演の情報は僕より知っています。「何日にあの番組に出るんだよね?」とマメに連絡をくれるので、僕はそのメールで放映日を知るという。(笑)
吉 ありがたいね。俺は15歳で上京して、日本料理店で働いてた。月3万円の給料から源泉を引かれて2万7000円。歌のレッスン料が2万円だから全然残らない。まかない付きだったから何とかやっていけたんだけどね。しかも20歳のときに「山岡英二」という芸名でデビューできたものの、郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹の《新御三家》と一緒だったから、レコードを出しても全然売れないんだよ。その後は芸名が「吉幾三」に変わってさ。
真田 しばらくは覆面歌手状態だったとうかがっています。
吉 そうそう。1984年に「俺ら東京さ行ぐだ」をリリースした直後なんて、事務所に苦情の電話がバンバンかかってきたんだ。「あのふざけた歌を歌ってるのは誰だ!?」って。うちの親父からも「どこのバカ野郎だ! 青森五所川原の生まれだって言ってるが、お前、誰だか知ってるか?」。まさか俺本人だと言えないだろ? 「親のツラが見たい」と言われたときは、思わず「アンタだよ!」って言いそうになった。(笑)
バトンを受け取りつないでいきたい
真田 その「俺ら東京さ行ぐだ」が大ヒットした2年後に、「雪國」を歌われて。
吉 千さんには「そんな正統派の演歌を歌っても売れない」と言われていたんだよ。ところが大ヒットした途端、「俺は最初から売れると思ってた!」だって(笑)。でも嬉しかったね。2人でオイオイ泣いたもん。親父も、青森に家を建ててやったら「お前ならできると思ってたよ」って大喜び。昔「二度と家の敷居をまたぐな!」って湯のみを投げつけた人間とは思えない変わりようでさ。まあ何はともあれ、「雪國」で千さんと一緒に『紅白歌合戦』にも出られたし、いい親孝行ができたよ。
真田 素敵なお話ですよね。僕もいつかは紅白に出て、親孝行したいです。
吉 そうだな。親と俺に晴れ姿を見せてくれよ。
真田 頑張ります! そして今回は、先生のプロデュースでオリジナルアルバム『真田ナオキの世界』をリリースさせていただくことになり、本当に胸がいっぱいです。レコーディング中も勉強になることばかりで、僕自身、たくさんの課題に気づけました。
吉 まだまだな部分も多いけど、思わず泣けた曲も2、3はあった。心に沁みたよ。
真田 ありがとうございます。全曲先生に書いていただいたうえに、「こんな曲はどうだ?」と、これまで歌ったことがないジャンルの歌にも挑戦させていただいて。ラブソングや壮大なスケールの歌など、バリエーションに富んだ内容だったので新鮮でした。
70歳近いオヤジのくせに、ラップをYouTubeで
吉 三味線が入るド演歌の曲があったりね。俺はさ、ナオキは《演歌歌手》じゃなくて、《歌謡曲を歌う歌手》だと思ってるの。演歌って「あなたを殺して私も死ぬ」みたいなドロドロした歌詞が多いけど、ナオキはそういう雰囲気じゃないから。普段は演歌を聴かない人にも聴いてもらえたら嬉しいよね。
真田 はい。しっかりバトンを受け取って、つないでいきたいと思っています!
吉 ナオキには早く自分のバンド、つまりファミリーを連れてツアーを回れるような、一人前の歌手になってもらいたい。そしたら俺からは卒業だよ! あと1〜2曲は書いてやるけど、その後はほかの作詞家、作曲家の先生が書いた歌を歌ってほしい。
真田 精進します!
吉 歌謡曲を歌っていくなら、いろいろな音楽を聴いて勉強することが大事。俺なんか70歳近いオヤジのくせに、最近じゃあラップ(「TSUGARU」)を歌ってるからね(笑)。YouTubeで配信したんだよ。一銭にもならないけど、皆が注目してくれたらいいなと思ってね。
真田 すごく格好いいです。いつも思うんですが、先生は本物のエンターテイナーですよね。ステージに立てば歌が素晴らしいのはもちろん、トークもお上手で笑いが絶えない。その一方で、シリアスな話をして感動させたり。僕もいつかは先生のように、お客さんの心を惹きつけて離さない歌手になりたいです。そのためには、もっともっと勉強しないと。
吉 ナオキは日本の歌謡曲以外もよく聴いているよな。
真田 カナダのシンガー・ソングライターのマイケル・ブーブレが大好きで、いつも車の中でかけています。
吉 いいね。俺も外国の音楽が大好きだから、アメリカからアフリカ、スペインまで、ジャンルを問わず何でも聴く。クラシックも聴くし。コロナ禍になる少し前、1年間海外を回っていろいろな歌を聴いたよ。再来年にニューヨークで50周年ライブをやる予定だからカーネギーホールへも寄ってきたけど、果たしてどうなるか。でも、まずはナオキのアルバムだな。大変な時期だからこそ、皆さんに歌で元気になってもらえたら。
真田 たくさんの人に聴いていただきたい。ファンの皆さんには再会できるその日まで待っていてほしいです。
吉 その意気やよし。また飯を食いに連れて行ってやるからな!
10/14 10:30
婦人公論.jp