仁支川峰子「26年前、栃木の集中豪雨で新築1ヵ月のマイホームを失った。復興時には日頃のつき合いに感謝して」

「過去に例はないということでしたし、近くの川も流れが速くなかったので安心していたのですが、まさかすべて流されるほどの水害が起きるなんて夢にも思いませんでした」(撮影:洞澤佐智子)
『婦人公論』8月号(7月15日発売)では、「豪雨、地震、台風……今すぐ見直すわが家の防災」という特集を組み、自然災害への備えについて特集しました。そのなかから、選りすぐりの記事を配信します。
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1998年8月27日、栃木県で起きた集中豪雨によって、那須町の新居が流されてしまった仁支川峰子さん。幸いその日は家におらず無事だったものの、40年分の持ち物をすべて失いました。それでも同じ場所に再び家を建てた、その理由とは――(構成:丸山あかね 撮影:洞澤佐智子)

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4匹の愛犬と一緒に東京へ

40歳だった当時、家を建てるのが唯一の趣味でした。持っていた家を売っては新しい家を建てるということを繰り返していて、流された家は5軒目のマイホーム。

97年の秋頃、雑誌をパラパラめくっていて那須という土地に興味を持ち、12月にほんの軽い気持ちで見に行ったのです。なんて空気が綺麗なんだろうと感動して、「私が求めていたのはここだ!」と土地購入を即決。

98年に入ってすぐに着工し、完成は7月末の予定でしたが、5月は雨続きで工事が遅れ、1ヵ月延びました。まだ工事中の部分はあったものの、7月末から住み始めたので、豪雨で流されるまで1ヵ月間だけ暮らすことができたのです。

川沿いの土地ですから、購入する前に水害について調べていました。過去に例はないということでしたし、近くの川も流れが速くなかったので安心していたのですが、まさかすべて流されるほどの水害が起きるなんて夢にも思いませんでした。

思えば、自動車事故で九死に一生を得たり、50代で甲状腺がんを発症して生死の境を彷徨ったりと、波瀾万丈の人生を歩んできました。あの集中豪雨の日のことも、しっかりと心に刻まれています。

栃木県は山に囲まれているため積乱雲が発生しやすく、あの時は発達した積乱雲が1週間前から上空に停滞していたようです。8月26日に降り出した雨はみるみるうちに激しくなっていきました。

後で聞いたところによると、26日から31日にかけての総雨量は平均年間降水量の3分の2以上にあたったとか。500年に一度の規模だったそうです。

28日に東京でテレビ番組の収録があり、当初は28日の早朝に家を出る予定でした。ところがふと、前日のうちに上京しておいたほうが楽かなと思い立ち、バタバタと支度をして27日の19時に家を後にしました。

いつもなら当時飼っていた4匹の犬の世話を通いのお手伝いさんに頼むところ、「今日は雨がひどいから来なくていいわ」と電話で伝え、犬たちも車に乗せて東京の事務所兼自宅へ向かったのです。

28日の生放送中に、ニュースで自宅が流されたことを知り、咄嗟の判断で家を離れて本当によかったと胸をなでおろしました。命あるものがみんな助かったのですから、これ以上いうことはありません。

那須の自宅へ帰れない間、テレビの報道番組で見た映像は衝撃的でした。氾濫した余笹川(よささがわ)の水がすさまじい勢いで流木を運んで橋をなぎ倒し、濁流が下流付近の水田や家屋をのみ込んでいくのです。

なにより那須に住む人たちの人柄に惚れたところがあったので、「隣家のあの人は大丈夫だったのかしら」と心配する日々。

地元の警察から、「お宅が崩壊状態になっています」と連絡を受けたのですが、わが家は余笹川の支流である多羅沢川(たらさわがわ)沿いに立っていたので、被害を免れないことはわかっていました。

それに、ニュースの映像で崩壊した自分の家を見ていたのです。テレビのレポーターが私の家に勝手に入り込んで中継をしていたんですよ。これって不法侵入じゃないの? と、めちゃくちゃになった家を見て落ち込むよりも、その行為に対する怒りが大きかった。

一方、隣家のおばちゃんがワイドショーでインタビューを受けている様子をテレビで見て、「無事だったんだ!」とひと安心。

とにかく家に帰れるまではどうすることもできないので、淡々と仕事をこなしました。ステージ衣装は那須の自宅に保管していたので知人に借りて。

当時はジャージが流行っていたので、収録でもどこへ行くにもジャージで過ごしていました。これはこれで楽でいいな、と思ったものです。(笑)

昔の友人が駆けつけてくれて

大変だったのは、その後でしたね。私が那須の家へ戻ったのは、ようやく水が引いた9月に入ってからでした。ドアや壁は流木に突き破られ、室内は泥だらけ。平屋でしたので、新調したばかりの家具も全滅でした。浸水して使い物にならない、というレベルではなく、すっかり流されてしまって何もない状態。

家から200メートルくらい離れた川沿いに立つ大木に、自分が寝ていたベッドのマットレスが引っかかっているのを発見した時は、「あの日、家で寝ていたら……」と、さすがに血の気が引きました。

正直なところ、せっかく建てた家が暮らし始めて1ヵ月でオジャンになったうえに、まだ保険に入っていなかったのも痛かった。

すべての衣装はもちろん、愛車のベンツもバッグも靴もお気に入りの食器もすべて失いました。でも、物はまた働いて買えばいいや、と思えたんです。

悲しかったのは、すでに亡くなっていた両親と写った写真が流されてしまったことです。アルバムも失ったと気づいた時は愕然としましたね。すべてを失うというのはこういうことか、と。

気持ちに折り合いをつけられたのは、地元や東京から手伝いに来てくれた友人たちのおかげです。のべ50人くらい来てくれました。

私は昔から人をもてなすのが好きで、よく料理を作って家に招いたり、若い人たちを食事に誘って奢ったりしていました。見返りが欲しくてしたわけではなかったけれど、みんな覚えていて、駆けつけてくれましたね。あれは嬉しかったし、何より助かりました。

日頃の人づきあいが大切だとつくづく思います。那須町の住民とも仲良くしていたので、情報交換をしたり、励まし合ったりできて心強かったです。

当然、那須の家には暮らせなかったので、東京の事務所で1年ほど過ごしました。

もともと物にあまり執着がないタイプです。というのも、私は福岡県田川郡赤村の山奥にポツンと立つ家で生まれ育ち、電気が通ったのは6歳の時でした。カンテラ蝋燭で夜を過ごし、ほとんど自給自足の状態で暮らしていた経験があるので、原点に戻ればいいだけだと思えばどんな暮らしも怖くないんですね。

もし避難所生活になったとしても、元気に生きていく自信があります。

後編につづく

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