「大人女子」代表の小泉今日子が大切にし続けた<少女心>とは。「微妙なお年頃の30代」から「ツヤっと輝く40代」に回復するまで

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)
「大人の女には、道をはずれる自由も、堕落する自由もある」――。そう語るのは、甲南女子大学教授で社会学者の米澤泉さんです。米澤さんは、型破りのアイドル・小泉今日子さんと、少女マンガを超えたマンガ家・岡崎京子さんの生き方に注目。<二人のキョウコ>について「20世紀末に岡崎が種を蒔き、21世紀に小泉が『別の女の生き方』を開花させたのではないか」と考えています。そこで今回は、米澤さんの著書『小泉今日子と岡崎京子』から一部引用、再編集して「小泉今日子さんの大きな役割」についてお届けします。

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【書影】ふたりのキョウコの自由への渇望とその実践に迫る!米澤泉『小泉今日子と岡崎京子』

好きに生きてこそアイドル──大人女子の水先案内人

30代後半から40代後半にかけて、小泉今日子は大きな役割を担っていた。

この10年間は、日本アカデミー賞やブルーリボン賞の主演女優賞に輝くなど俳優としてめざましい活躍を見せていたが、他にも小泉今日子にしかできない役割を雑誌の世界で担うようになっていたのだ。

それは、2000年代以降に宝島社の雑誌が積極的に提唱していく「大人女子」の代表という役割である。

その名の通り雑誌『宝島』に端を発する宝島社は、ことファッション誌に関しては後発だった。1989年に『CUTiE(キューティ)』を創刊するまで、女性誌やファッション誌とは無縁だったと言っても過言ではない。

だが後発ゆえに、マガジンハウスはもちろん、光文社や集英社、講談社といった大手出版社のファッション誌とは異なる独自の立ち位置を築いていくことになる。

10代のためのストリートファッション誌『CUTiE』を皮切りに、1990年代から2000年代にかけて宝島社は、『SPRiNG(スプリング)』『sweet(スウィート)』『InRed(インレッド)』と次々に新雑誌を創刊し、最先端のモード誌でもなく、コンサバティブなファッション誌でもない、独自のスタンスで青文字雑誌と呼ばれる一大潮流を牽引していく。

青文字雑誌とは、『JJ(ジェイ・ジェイ)』や『CanCam(キャンキャン)』といったタイトルロゴが赤い「赤文字雑誌」に対抗する勢力となった、宝島社発行のファッション誌を中心とする雑誌の総称である。

コンサバティブな赤文字雑誌が好感度を重視し、周囲の人々に好かれる服を提案することを念頭に置いていたとするならば、宝島社の青文字雑誌は「他人に好かれる服よりも自分の好きな服を着ること」をモットーとしていた。そんな青文字雑誌が自分流を貫く小泉今日子に白羽の矢を立てたのもごく自然な流れだろう。

新しい舞台『InRed』

ファッション誌の萌芽期である70年代から日本のファッションをリードし続けてきたマガジンハウスの雑誌は、2000年代に入って、『ku:nel(クウネル)』などのライフスタイル誌に軸足を移し始めていた。

『アンアン』もしだいにファッションのテーマが減少し、内容的にも先鋭的ではなくなっていく。「パンダのan・an」の頃とは様変わりしたのだ。代わって台頭してきた宝島社のファッション誌が小泉今日子の新しい舞台となった。

2003年に創刊された『InRed』は、「30代女子」をコンセプトに、未婚既婚にとらわれない新しい女性像を打ち出した。当時30代半ばの小泉今日子を表紙モデルに起用し、ビジュアル的にも今までにない30代女性のファッション誌を標榜していく。

半年間『InRed』の表紙とファッションページもやらせていただきました。最初はね、自信がなかったの。コンサバ系でもマダム系でもキャリア系でもない30代女性が読む雑誌。若い頃はクラブとかでガンガン遊んでたような30代女性が納得できるファッション。最初に『InRed』の話を聞いた時の私の解釈はそんな感じ。
(『小泉今日子の半径100m』62─63)

この『InRed』でも小泉今日子はイメージモデルだけでなく、創刊から約3年にわたってエッセイを連載することになった(2003年3月号~2006年2月号)。

「小泉今日子の半径100m」と名付けられた文章と写真は、言わば、続「パンダのan・an」であり、アラフォー世代となった彼女の身辺雑記となっている。

後半は読書委員を引き受けた時期とも重なっているが、読売新聞の書評が内省的で文学的な心情吐露になっているのに対し、こちらは「大人の乙女ゴコロ炸裂!のフォト&エッセイ」(『小泉今日子の半径100m』の帯文)とあるように、「パンダのan・an」の仲の良い女友達への近況報告といったスタイルを踏襲している。

微妙なお年頃

だが、連載を始めた頃は「自信を喪失している時期」で「結構投げやりな気分で生きてたかも。」と後になって小泉今日子は振り返っている(「エピローグ」170)。確かに、その内容も「パンダのan・an」とは違って元気がない。

「30代は微妙で中途半端なお年頃」というタイトルが付けられた冒頭のエッセイは、「私…。最近…。なんだか…。微妙な年頃。思春期なんかとっくの昔にやり過ごした。30も半ばのこの私に再び微妙なお年頃がやってくるとは夢にも思っていなかった。」(『小泉今日子の半径100m』2)からスタートする。

(写真提供:Photo AC)

第1回も「最近、悩みがあるのよね。悩みっていうか迷っている。どうしようかなぁ? どうするべきか…。それが問題だ!」(10)から始まり、2回目に至っては「風邪ひいたぁ。40度くらいの熱が3日も4日も続いたぁ。」「病院に行く気力もない感じ。」(14)と精神的にも肉体的にもどん底状態にある自分を露呈する。

永瀬正敏との蜜月期間だった「パンダのan・an」の時期とは異なり、離婚を挟んだ3年間の身辺雑記であることも関係しているのか、「ファッションとかカルチャーとかそういうものに興味を失いかけていたような気がしてたし、このままオバちゃんになっちゃえばいいや!って開き直って宣言したいような心境だったからね。」(63)と後になって、連載開始当時の心境を語っている。

確かに30代後半というのは、微妙なお年頃だ。若さの勢いで突っ走れる時期はとうに過ぎたけれども、まだ本格的な「老い」を感じるほど年は重ねていない。

女性の場合は、とりわけ子どもを産むかどうかという選択を最終的に迫られる時期でもある。今までとは違う方向にシフトすべきなのか、今後何を軸に生きていくべきなのか。

3年間書きためたエッセイと写真からは「どん底」の状態からもがきつつ浮上し、悩みながら、答えを探しながら生きていく小泉今日子の姿が見て取れる。

幸せってなんだろうね? 別に不幸だと思ったこともないけど幸せっていう自覚? 実感?っていうのもあんまりないかもしれない。過去を振り返ると心が温かくなるような瞬間を思い出したりするけどね。幸せの瞬間を積み重ねていけば、未来の私が幸せと感じるんだろうか?(81)

小泉の少女心

俳優としてドラマや舞台に出演し、さまざまな役を演じていく一方、プライベートでは引っ越しをし、猫を愛でる毎日。時に充電し、初めて「大人の夏休み」を満喫するなかで、しだいに小泉今日子は元気を取り戻していく。

日々の暮らしを題材にしたエッセイを書くことで、自信を失っていた状態から、「大人女子」代表として「ツヤっと輝く、40代」を迎えるまでに回復していくのだ。

「この連載を重ねながらじっくりリハビリしてたような気がします。リハビリの甲斐あって、これからも攻めの人生を送れそう。」(「エピローグ」174)と本人も言うように、大平洋子編集長に背中を押されて始めた『InRed』での活動が、心身ともに彼女のリハビリになっていたのだろう。

「3年間、書いているうちに自然に片づいてた。居心地のよい生き方ができるようになってたよ。」(170)まさに不惑である。40歳、もう迷うことはない。自分の好きなように生きればよい。女の子の心意気を持ったまま、現実を受け入れればいいのだ。その覚悟が40代以降の「攻めの人生」につながっていく。

「女の子(少女)の心意気」──これは小泉今日子を理解するうえでの重要なキーワードである。彼女はいつも、「少女心」を大切にしている。30代になっても、40代になってもそれは変わらない。

大人の女になると少女心を忘れがちじゃん。まぁ、全面に出して生きるのも気持ち悪いけどさ。でも絶対に心の奥の方で大事に大事に守ってあげなくちゃいけないものだと思う。自分だけが知っている秘密の宝物みたいにさ。庭で雑草と闘ったり、鉢植えを育てたりしてるとね、その自分の少女心をピカピカに磨いてあげているような気分になるんだよね。私の場合は庭なんだけど、それが人形だったり、手芸だったり、読書だったりさ、人それぞれ少女心の隠し場所がちゃんとあるでしょ。大事にしなくちゃね。おばあちゃんになってもちゃんとピカピカに磨いてあげたいよね。
(135)

小泉の少女心は、あの頃を懐かしむという単なるノスタルジーではない。「絶対に心の奥の方で大事に大事に守ってあげなくちゃいけないもの」「自分だけが知っている秘密の宝物」である少女の心。かつては持っていたはずなのに、年齢を重ねるにつれて、大人の女になるにつれて、忘れられ、失われていくもの。

それは、自分が大事だと思うこと、自分の領域を守るということであり、私が私であるために必要不可欠なものだと言うこともできる。

もっと言うならば、それこそ心の自由であり、自分の好きなように自由に生きることにつながる精神が、「少女心」や「女の子の心意気」という言葉で表わされているのではないだろうか。

※本稿は、『小泉今日子と岡崎京子』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。

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