3年かけて探し出されると、東京では衣食住を提供され…「九州に帰したらエンターテインメント界の損失に」赤塚不二夫が語るタモリ上京秘話
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【書影】3人の「母」を通して描く、知られざる赤塚不二夫の物語。山口孝『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』
最初の妻・登茂子との離婚後
糸の切れた凧、自由になった赤塚のハチャメチャな生活は続いていた。
別れてすぐ「名前なんてなんだっていいんだ」と、突然、全雑誌の連載で「山田一郎」と改名する。
仕事は相変わらず忙しかったが、夜も寝ないで、遊んでいた。
翌年3月には『週刊新潮』で美人局スキャンダルが報じられ、やくざから逃げるため約半年、都内に潜伏した。
そんな失敗もなんのその、赤塚の絶頂期は続いた。
11月には、集英社が主催、若手ギャグ漫画家を表彰する『赤塚賞』をスタートさせた。
75年4月から1年間、NHKの、近代の歴史に埋もれた出来事にスポットライトを当てる、硬派の番組『スポットライト』のレギュラー司会者になる。
赤塚と出会う前のタモリ
6月には九州からタモリを呼び寄せた。
タモリは45年生まれで福岡県の出身。赤塚とは10歳違いだった。本名は森田一義。早稲田大学時代はサークルの『モダン・ジャズ研究会』に属し、『タモリ』は森田の逆読み、その当時に名付けられたものだった。
72年、ジャズピアニストの山下洋輔トリオが仕事で福岡・博多に行ったとき、ホテルの部屋で、テレビの音を消して時代劇を見ながら、デタラメ韓国語の即興劇で盛り上がっていた。それを、開いていたドアから見ていたタモリが乱入し、独自の即興劇を披露した。
トリオは圧倒され、爆笑となった。帰京した山下が、新宿のバー『ジャックの豆の木』でその話をしたところ、東京に呼ぼうということになった。
山下は3年間かかってタモリを探し出した。
赤塚がほれ込んだタモリの才能
上京したタモリは『ジャックの豆の木』で、さっそく芸を披露する。
すべてデタラメながら英語、ベトナム語、韓国語、中国語もどきを巧みに操った『4カ国語麻雀』や『ターザン』ネタなど、次々出される『お題』をすべて即興で、しかも爆笑を誘いながら完璧に演じるタモリに赤塚がほれ込んだ。
「泊まるとこあるの?」
「ない」
「じゃ、ウチ行こう」
当時、73年に離婚してから赤塚が住んでいた目白のマンションに連れて行き、そのまま住まわせてしまった。家賃17万円を負担するばかりでなく、家具、食料、酒、服、車、挙げ句に小遣いまで、ほぼ1年間、衣食住すべてにわたって面倒を見た。
赤塚自身は、仕事場でロッカーを倒し、その上に布団を敷いて寝起きしていた。
「僕が一番金を持っていたし、九州に帰したら日本のエンターテインメント界の損失になると思った」とまでタモリを買っていた。
当時は“独身”。少年週刊誌3誌で連載を抱え、『週刊文春』では『ギャグゲリラ』がロングラン中だった。アニメ『元祖天才バカボン』が放映され、テレビでレギュラー番組を持つなど、絶頂期が続いていた。
そしてテレビ出演、大ブレイクへ
タモリのテレビ初出演は76年、NET(現テレビ朝日)のバラエティ番組『赤塚不二夫の世界』だった。
82年、フジテレビのバラエティ番組『笑っていいとも!』の司会に抜擢され、以後大ブレイク。月曜から金曜まで週5回、昼の生番組は2014年まで、実に31年半も続いた。
赤塚は『いま来たこの道帰りゃんせ』で、こんなことを書いている。
「居候文化、というものがあると思う。売れないやつが売れてるやつのところへ居候して、その間に学び、鍛え、充電する。そして、居候が世に出ることをもって、お返しと受け取る。(中略)経済的には大変に違いないが、人間同士の触れ合いによる、文化の継承形式の一つだと思う」
1年後、タモリは高円寺のマンションに移り、博多から夫人を呼び寄せ独立。
「ボクの夢は見事に花開いたのである」と。
※本稿は、『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』(内外出版社)の一部を再編集したものです。
05/20 12:30
婦人公論.jp