赤塚不二夫の<酒と金>。レーシングチームに赤字会社経営、クルーザー購入…「金持ちになることが罪悪みたいに思えて仕方なかった」

(写真提供:Photo AC)
『おそ松くん』『天才バカボン』など、「ギャグ漫画」のジャンルを確立した天才漫画家・赤塚不二夫先生。晩年期の赤塚先生を密着取材していたのは、当時新聞社の編集記者だったジャーナリストの山口孝さんです。山口さんは、先生から直接「評伝」の執筆を勧められ、長い時間をかけ『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』を書き上げました。「最後の赤塚番」が語った、知られざる「赤塚不二夫伝」を一部ご紹介します。

* * * * * * *

【書影】3人の「母」を通して描く、知られざる赤塚不二夫の物語。山口孝『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』

酒を覚え、女性遍歴も

65年1月、『おそ松くん』で『第10回小学館漫画賞』受賞が決まる。

「漫画もヒットしたし、酒を覚えてもいいだろう」という周囲の声もあって、赤塚は初めて、ウイスキーを飲んだ。

高井研一郎と古谷三敏、ふたりに誘われ新宿、風林会館近くのバー『竹馬』に行った。ボトルをキープした。

「俺が飲めるようにしちゃった」と、高井は、後に僕と一緒に飲んだとき、ぶっきらぼうに明かした。

何気ない誘いが、その後の赤塚の人生まで変えてしまうことになって、複雑な思いだったのか、それとも“これでいいのだ”と開き直ったのか、真意は分からない。

それまではビールをコップ半分飲んだだけで、へべれけになるほど弱かった。

北見けんいちが振り返る。

アシスタントに採用されることが決まった63年の暮れ、第3さつき荘で忘年会をしようということになった。

「先生が、ビール買ってきてって言ったの。男が6人いるのに、3本でいいって。それとクリスマス・シャンパン2本。それで6時から12時までもった、映画の話で盛り上がって……。先生も僕もほとんど飲まなかったから」

赤塚にとっての「酒」

『おそ松くん』人気で、テレビ出演の依頼も増えた。

65年12月にはNET(現テレビ朝日)の特別番組『まんが海戦クイズ』に4日間連続で出演した。小学生が5人ずつ『おそ松丸』と『だめ夫丸』の2組にわかれてクイズに挑戦する番組。黒柳徹子の司会で、赤塚、当時の人気漫画『丸出だめ夫』の作者・森田拳次がそれぞれキャプテンを務めた。

好評で、翌年3月から『まんが海賊クイズ』となってレギュラー番組化され2年間続いた。

テレビ出演について赤塚は、『いま来たこの道帰りゃんせ』で、「もともとぼくは、こわがりで恥ずかしがりやで、テレビに出る度胸がない。だから、出演の前にはウイスキーを飲む。楽屋にもウイスキーを持っていく」と告白している。

酔った勢いで、こなしていたのだ。

少しずつ、水割りをなめるように飲んでいるうち、だんだん量が増えていった。

シャイで、人と目を合わせることもできなかった恥ずかしがり屋が、酒を飲むと気も大きくなり、話もできた。

飲みながらの猥談、人の悪口はなし。はじめは映画の話をしてるのが好きだった。

「みんなと仲良くなって、楽しい会話をして、面白いことをやりたくなる」

それが赤塚にとっての酒、だった。

酒によって、赤塚の行動範囲、交友関係は格段に広がる、というより一変した。これまでは漫画家仲間、編集者との世界に限られていたと言ってもいい。

『竹馬』には、編集者、スタッフとも行ったが、そこで葬儀屋、玩具屋、医者、土木作業員など様々な職業の人間と会った。『もーれつア太郎』に出てくる『ココロのボス』は、ここで会った変わった中国人がモデルだった。

アイデアの幅も広がるという大きなメリットもあった。

赤塚は、新宿を拠点に、面白いところ、楽しいところにはどこでも顔を出した。

コマ劇場裏にあった『ジャックの豆の木』には、ジャズピアノの山下洋輔、坂田明、中村誠一トリオのほか、なぎら健壱、三上寛、高信太郎、筒井康隆、滝大作、上村一夫らがいた。

ひとり一芸が必要だった。

赤塚は、話芸でなく荒芸。形態模写、体を張った芸が得意だった。裸になるのが好きでストリップ、ローソクショーをやった。

コスプレにも凝っていた。セーラー服、看護婦、着物姿……。

「すごく気持ちいい。シャイなんだよ。だから、自分が違う人物に変装すると、勇気が出るんだよ」

こんな変身ぶりを、当時、登茂子(=最初の妻)はまったく知らなかった。

忙しさにかまけて、ほとんど家に帰ってこないし、「帰ってきても30分もいないで出ていったこともある。それに、家ではまったく飲まなかったんです」と言う。

文字通り、金を「湯水のように」使う日々

離婚してからはさらに、飲んで遊んで……、が激しくなる。

中でもすさまじかったのは、新宿2丁目の『ひとみ寿司』だ。2階の6畳の部屋に、多いときには30人も入って遊んでいた。

(写真提供:Photo AC)

名前を挙げれば、タモリ、所ジョージ、高見恭子、高平哲郎、山本晋也、坂崎幸之助、嵐山光三郎、篠原勝之……。テレビディレクター、プロデューサー、タレントの卵、売れない芸人、俳優、ポルノ女優、種々雑多な職業の男女が集まった。

寿司は禁止。焼酎のほうじ茶割り、氷水に入れたキャベツをムシって胡椒をかけて食べる、だけがツマミだった。

「それでも月200万円くらい払ってた。ひとみ寿司のおかげで、みんな育ったじゃない」と赤塚。

新宿ゴールデン街にもよく顔を出した。

ゲイバーと安いバーが混在。作家、映画・演劇関係者などジャンル別にひいきの店がわかれていた。しかし赤塚は委細かまわず「楽しいところ」はどこへでも行った。

『ユニコーン』には大島渚、若松孝二ら映画関係者が集まった。

『ナジャ』には篠山紀信、大森実、藤本義一がいた。

『まえだ』は野坂昭如の行きつけの店だった。田中小実昌、唐十郎もいた。

『状況劇場』を主宰していた唐は2丁目の『紅テント』で公演していた。

赤塚は「雨が漏って客が濡れちゃうからかわいそうだと思って、テント買ってやるって言ったの。二、三百万円って言ってたのに、実際には600万円だった」と、唐との関係を話した。

カンパも惜しまなかった。

『おそ松くん』が大当たりして、赤塚はにわか成金になった。

66、67年ごろは、新宿税務署で納税者番付3位、中野税務署で2位の高額納税者になった。

このころから毎年、新宿のホテルで忘年会を開催した。招待客はピーク時、400人に達したという。

金は、文字通り湯水のように使った。

「金に執着はまったくない。着るものにも一切無頓着」。登茂子、真知子、ふたりの女房が口をそろえた。

赤塚は『いま来たこの道帰りゃんせ』で、このころの自分を「成り上がり」と言い「金持ち=罪悪」と考えていた。

「漫画の流行作家というわけで、どんどん金が入ってきたが、生来ハングリーだったからか、金持ちになることが罪悪みたいに思えて仕方がない。少し貯えができると、何かに使いたくなるのである」と。

68年には、レーシングチームを持った。これはレースで金儲け、を企んだわけではなく、友人に頼まれたからだった。登茂子が入れ込んだ事業だった。

芸能プロダクション『不二・ビデオ・エンタープライズ』を設立した。アニメーションの制作会社『不二アート』もつくった。いずれも赤字続きだった。

1971年、渡米してから

71年夏、渡米する。

『天才バカボン』などの連載を抱えていたが、原稿はニューヨークから航空便で送った。

滞在2カ月間で200万円を使う、豪遊だった。

帰国して、ますます金遣いが荒くなった。

渡米時、友人の『ウィスパー』というクルーザーに何度も乗せてもらった。「これは女にモテる」と思い込んだ赤塚は、帰国してすぐ、1200万円をポンと払ってヤマハのクルーザーを買い、『ウィスパーJr.』と名付けた。

もうひとつ、ニューヨークで飲んだオランダ産のビール、ハイネケンが忘れられなかった。当時日本の酒屋では売っていなかった。現在のような並行輸入制度もなく1箱とか2箱では輸入できなかった。

「1船丸ごと買った。200~300ダースはあったんじゃないか。当時下落合のひとみマンションに5部屋、スタッフと僕用に仕事部屋を借りてた。それと、僕が住んでいた目白のマンション。押入れとベランダにも積んで並べたけれど、いつまでたっても部屋の中真っ暗だった。75年に上京した(目白に住んだ)タモリも飲んでいた」

4年以上飲み続けられた。一体いくらかかったのか、分からない。

※本稿は、『赤塚不二夫 伝 天才バカボンと三人の母』(内外出版社)の一部を再編集したものです。

ジャンルで探す