<キャリアのピーク>42歳で笠置シヅ子が歌手を引退した理由とは…服部いわく「最高の思い出を残して音の世界から消えた」誰もがリスペクトしたその潔い生き方『ブギウギ』

佐藤さん「笠置シヅ子は、そのキャリアのピークでゆるやかに歌手としての引退を決意した」(写真提供:Photo AC)
NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく「笠置シヅ子は、そのキャリアのピークでゆるやかに歌手としての引退を決意した」そうで――。

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潔く生きた人生

1985(昭和60)年3月30日、笠置シヅ子こと亀井静子は、東京・杉並区の病院で70歳の生涯を閉じた。

1947(昭和22)年、「東京ブギウギ」をレコーディングしてから9年間「ブギの女王」としてステージに、映画に、レコードにとパワフルな活動をしてきた笠置シヅ子は、42歳、そのキャリアのピークでゆるやかに歌手としての引退を決意した。

とはいえ、1957(昭和32)年5月には新宿コマ劇場「クルクル・パレード」に主演、クライマックスにはロックンロールを歌っている。

これが最後の「歌って踊る」ステージとなった。

その後も、服部良一プロデュースのミュージカル団体「凡凡座」にも出演。

時折、ステージで歌っており、コロムビアとの専属契約もそのままだった。

これまでのレコードやステージ中心の生活から、マイペースで出来る俳優の道を選んだのである。

「回想の笠置シヅ子」

笠置シヅ子と入れ替わるように、石原裕次郎が映画デビューを果たし、歌手としても活動を始めた。

昭和20年代が笠置の時代だったとするなら、続く30年代は裕次郎の時代となった。

笠置の没後、服部良一は文藝春秋への寄稿「回想の笠置シヅ子」で思い出を綴っている。

年齢を重ねるうちに高いキーの声が出なくなり、音程を下げることは誰もがやっていたが「しかし彼女の場合はある日突然歌を止めてしまったので驚いた。はたから見た限りでは全然変わらないのに、彼女は自分自身の限界をさとってしまったのか、(中略)常に妥協を許さないきびしい人で、うっかり冗談もいえない人だったが、ほとんど最盛期と言ってもよい時期に、ファンに最高の思い出を残して音の世界から消えてしまったのである」(「文藝春秋」85年6月号)

『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(著:佐藤利明/興陽館)

シヅ子は「ああ、しんど」と現役の「ブギの女王」であることをやめてしまった。

しかし、芸能界を引退したわけでなく、誰もが認める「大阪のおばちゃん」キャラクターを活かして、年相応、自分に相応しい役柄を映画、テレビで演じ続けた。

歌手引退宣言をした直後、駆け出しの俳優のギャラで構わないので使って欲しいと、テレビ局や映画会社を回ったという。

その初仕事が、ラジオ東京テレビ(のちのTBS)のスタジオドラマ「雨だれ母さん」(57年1月8日〜7月16日)だった。

脚本は名匠・五所平之助とベテラン舘岡謙之助。

下町を舞台に逆境をものともせずに二人の子供を明るく育てる「おかあちゃん」役は、笠置のセルフイメージそのものだった。

ホンマによう言わんわ

昭和30年代から40年代にかけて、バイプレイヤーとしても数々の映画に出演した。

水谷良重(現・水谷八重子)主演『アトミックのおぼん 女親分対決の巻』(61年・東京映画・佐伯幸三)では、スリの親分・ヌーベル婆ちゃんをコミカルに演じ、軽演劇出身で当時、テレビで大人気のコメディアン、渥美清との丁々発止を見せてくれた。

映画で印象的なのは、吉永小百合と浜田光夫主演『愛と死をみつめて』(64年・日活・斎藤武市)で、ミヤコ蝶々、北林谷栄と共に演じた入院患者のおばちゃん役。

斎藤武市監督に伺った話では「どうしても笠置さんのキャラクターが欲しかった」とオファーしたという。

日活で石原裕次郎と名コンビだった舛田利雄監督が、『河内ぞろ どけち虫』(64年・日活)で河内のゴッドマザー的な母親役にシヅ子を抜擢したのも「買物ブギー」のおばはんに出て欲しかったと、筆者に話してくれた。

芸能界を引退したわけでなく、誰もが認める「大阪のおばちゃん」キャラクターを活かして、年相応、自分に相応しい役柄を映画、テレビで演じ続けた(写真提供:Photo AC)

最初、シヅ子は固辞したが、舛田が説得して出演した。

舛田がシヅ子のために用意したセリフが「ホンマによう言わんわ」だった。

誰もがシヅ子をリスペクトしていた。

時空を超えて

『喜劇大安旅行』(68年・松竹)で、シヅ子は新珠三千代の母親役で出演。劇中で伴淳三郎とゴールインしてラストがその新婚旅行だった。

可愛らしいおばちゃんキャラで、往年のイメージを踏襲していた。これも瀬川昌治監督の猛烈なラブコールに応えてのことだった。

ちなみに瀬川監督は、戦前からシヅ子の才能を評価していた瀬川昌久先生の弟である。

いずれの監督も、「ブギウギ・ブーム」の渦中、若者として撮影所を走り回っていた。

現場で一緒になった人も、そうでない人も「この役は笠置シヅ子で」とイメージしてキャスティングしていた。

黒澤明『野良犬』(49年・映画芸術協会=新東宝)で焼け跡の風景に、「東京ブギウギ」が流れるが、これはリアルタイムの風俗描写だった。

以後、映画やテレビで敗戦後の混乱期、闇市などのシーンにはかなりの確率で「東京ブギウギ」が流れている。

1970年代になると「懐かしのメロディ」的な企画で、戦前、戦後のスター歌手たちが集結して、往年のヒット曲を歌う「懐メロ番組」が数多く作られた。

しかしシヅ子は、すでに歌手は引退しているので、とさまざまなラブコールを断り続けた。その潔さこそ、笠置シヅ子であり、彼女の生き方でもあった。

それゆえ、遅れてきた世代は、全盛期の彼女の歌声を聴く喜びがあり、映画に記録されたパフォーマンスを体感することができる楽しみがある。

笠置シヅ子と服部良一が残した五十数曲のレコードセッションは、21世紀を生きるぼくたちに、様々なことを教えてくれる。

戦前ジャズの豊かさ、敗戦後の人々の生きる糧になったブギウギ…。

笠置シヅ子のパワフルな歌声、息遣いに、未体験の時代を感じることができる。時空を超えて、今を生きるぼくたちに限りないチカラを与えてくれるのである。

※本稿は、『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(興陽館)の一部を再編集したものです。

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