「母親と映画監督、どっちを取るの?」女性監督(47)が出産&育児で直面した“社会から置いていかれる”恐怖《9年ぶりの新作もテーマは「家族」》

『そこのみにて光輝く』(2014)でモントリオール世界映画祭の最優秀監督賞を取るなど輝かしいキャリアを持つ呉美保監督(47)にとって、『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(9月20日公開)は9年ぶりの長編映画になる。

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 CMなど短い映像の仕事は続けてきたが、映画のキャリアに長い空白ができたのは「子育てをしていたら時間がまったくなかった」という理由。新作も夏休みに2人の息子を夫と義父母に預けて3週間で撮り切るという強行日程だったという。

 キャリアと家庭の悩み、日本映画界の“働きにくさ”について、呉監督に話を聞いた。

©文藝春秋 撮影・山元茂樹

――吉沢亮さん主演の『ぼくが生きてる、ふたつの世界』が、呉監督にとって『きみはいい子』(2015)から9年ぶりの映画と聞いて驚きました。これだけ長い休みに入るのは勇気がいったのではないですか?

呉美保監督(以下、呉) 38歳で授かり婚だったんですが、妊娠した時点では映画の世界に戻るとか戻らないとか考えてもみませんでした。ただ、育児は大変だろうなとは思っていたし、映画界の先輩女性たちが子どもを産んで辞めていくのをさんざん見ていたので、不安ではありましたね。

――もう映画はおしまいという覚悟だったのでしょうか。

呉監督 というより、出産後のことを全く想像できていなかった感じでしょうか。家族をテーマに映画を撮ることも多かったのですが、自分事については深く考えてこなかったんだと痛感しました。

「映画の世界に戻れるという気持ちは完全になくなっていました」

――理想の家族像のようなものがあったわけではない?

呉監督 ないですね。1人目を出産した1カ月後に『きみはいい子』の公開が決まっていて、しかもその直前の産後20日目にモスクワ映画祭があったんです。スタッフはさすがに行けないと思っていたようですが、軽い気持ちで「行きます」と言ってしまって……。

――産後20日で海外はかなりキツそうですが……。

呉監督 大変でした(苦笑)。出産直前まで舞台挨拶やプロモーションをこなしていくうちに、だんだん「思ったよりキツイな」と感じはじめ、案の定体調を崩しました。私としては、片手に赤ちゃんを抱っこしながら働くイメージだったのですが、全然無理で。産後半年で帯状疱疹になってほぼ寝たきりのような状態になってしまい、レギュラーの広告の仕事だけはなんとかやっていたんですが、子どもが1歳になった頃には、映画の世界に戻れるという気持ちは完全になくなっていました。

――キャリアと家庭の両立どころではなかったんですね。

呉監督 はい。結局3年ぐらいはずっと体調が戻らず、映画の企画をいただくこともあったのですが、内容以前に映画の現場は無理だと思って断っていました。高齢での出産でしたし子供の夜泣きで寝られないこともあって体力的にも大変で、ご飯や日々の世話も気になって、とにかく目の前のことで精一杯でした。広告の仕事も好きなので、それを続けていけたら充分だと、映画はほとんど諦めていましたね。

――8年間の休業中も映画のお話が来続けていたのは、呉監督の実績あってのものですが、帰る場所がなくなってしまう不安や焦りはありませんでしたか。

呉監督 1人目を産んでしばらくは何も考えられませんでしたが、3歳を過ぎてちょっと手が離れてくると、ようやく焦りが出てきました。チクリと言われることもありましたよ。映画の企画をいただいて悩んで悩んでお断りした際に、「撮り続けないと忘れられるよ」と言われたり。「いや、そんなこと言われてもできないんだよ」と悔しかったですね。

――仕事と家庭のどちらをとるのか、という。

呉監督 ありましたね。「母親と映画監督、どっちを取るの?」と。「どっちもです」と答えましたけど。

「社会から置いていかれている」という焦りが薄まった時期

――38歳で長男を出産されて、40代に入ってから次男を産む決断をされたんですよね。

呉監督 40歳超えて映画への復帰を考え出すと同時に、「本当に2人目はいいのか?」という思いが強くなってきたんです。映画を撮りたいという気持ちの一方で、育児は大変だけれどそれ以上のしあわせがある。「できればもう1人欲しいな」と。

――それで復帰よりも、2人目を出産しようと。

呉監督 出産はタイムリミットがあるので、もしもう1人産むなら早くと思い、不妊治療の病院に行きました。それで43歳のときに2人目を出産できました。でもその間も、映画の企画をもらっても「妊活中なので」と断るしかなくて、ずっと不安でした。

――やはり妊活中では映画の仕事は受けられないものですか。

呉監督 先が読めないですからね。ただ、2人目を出産したのが、ちょうどコロナ禍の緊急事態宣言中だったんです。世の中が止まって大変な思いをした人もいるのであまり大きい声では言えないのですが、私自身は「社会から置いていかれている」という焦りが少し薄まりましたし、育児にもじっくり向き合えた貴重な時間でした。

――でも子供が2人になると、さらに大変だったんじゃないですか?

呉監督 私はむしろ逆で。もちろん物理的な大変さはありますけど、2人目が生まれて精神的には楽になった気がしています。長男だけのときは、私がゴミ出しに行くほんのちょっとの間でも1人になるのを嫌がったのに、次男ができたら2人で待てるようになったり。「ゴミ出しに行かせてくれた」「コンビニに買い物に行かせてもらえた」と段階を踏んで手が離せるようになってきました。

――2人の世界ができてきたのですね。

呉監督 次男が1歳になったころに「どうやらキャラが違うぞ、この兄弟」と気づいたんです。長男はものすごくおとなしかったんですが、次男は明るくひょうきんで、その影響で長男もどんどんたくましくなりました。私がいなくても2人で遊べるようになって「もう大丈夫だな」と少しずつ気持ちが仕事にも向くようになったんです。

「私自身が在日韓国籍なので、ある意味『ふたつの世界』で生きてきた」

――2021年には『私たちの声』というオムニバス映画で17分ほどのショートストーリーを撮られています。(公開は2023年)

呉監督 コロナ禍から世の中が動きはじめた時期にちょうど声をかけていただいて、次男も1歳になって言葉でのコミュニケーションを取れるようになってきたので、やってみようとお引き受けしました。主演の杏さんとプライベートでも交流させてもらっている中で、杏さんがパリに移住したのを見て私もチャレンジできるかもしれないと勇気をもらったんです。ちょうどそのタイミングで『ぼくが生きてる、ふたつの世界』のお話をいただいて。

――奇しくも今作も「家族」の話ですよね。

呉監督 私自身が在日韓国籍なので、ある意味「ふたつの世界」で生きてきたところがあって。五十嵐大さんの原作を読んだときに、彼のアイデンティティに対する感覚に共感したんですよね。彼はろう者の両親のもとで生まれた「コーダ」という立場で、成長につれ周りの目を気にするようになって、「自分は普通じゃない」と思いながら成長していくんです。

――呉監督自身も、国籍などで悩んだことがあるのですか?

呉監督 私の世代だと、自分が韓国人だということを人に言っちゃいけないと親から教えられてきた子もいます。私の家は韓国料理屋をしていたので、全然隠してはいなかったんですが、「自分は普通じゃない」「普通ってなんだろう」と考えることはよくありました。「少数派」「マイノリティ」という言葉もまだ浸透していない時代です。自分の出自をはっきり嫌だと感じたり、親に反抗するまではいかなくても、モヤモヤとする感情はありました。

小学校の卒業式で、卒業証書を隠した「恥ずかしい」という気持ち

――モヤモヤを意識するようになったきっかけはあったのでしょうか。

呉監督 幼い頃からなんとなく感じていましたが、特に違和感があったのは、小学校の卒業式ですね。私は通名(日本名)で通っていたのですが、なぜか卒業証書に本名を書かれていたのです。後で知ったのですが、母が先生に本名と通名のどっちを卒業証書に記載するかを聞かれ本名を選択したと。友達が卒業証書を見せ合っている中で、私は恥ずかしくて筒にスルッと入れて見られないようにした記憶が鮮明にあって。今だったらたいしたことないような、名前が違うとか、些細なことが当時は恥ずかしいと思っていました。

――お友達に何か言われたことなども?

呉監督 友達に言われたことはないです。でも家のご飯は韓国料理だし、部屋の装飾はカラフルだし、カーペットもツヤツヤで、夏布団もタオルケットじゃなくてガサガサした薄手のもの(イブル)だったり。なので友達が来るとなんとなく恥ずかしいと思って隠したりしていました。その記憶が、両親が耳がきこえないことを恥ずかしいと思う主人公の感情に重なったんです。

――ご自身のルーツや家族が映画の源泉になっているのですね。

呉監督 そうですね。幼少期に抱いていた「“普通”の家族ってなんだろう?」という疑問がずっと残っているから、いろんな家族の「かたち」を模索し続けているんだと思います。

「これまでは家事や育児は私が…」9年ぶりの映画撮影で3週間家を離れた呉美保監督(47)が、夫に頼ってみて気づいた“意外なこと”《新作がきょう公開》〉へ続く

(田幸 和歌子)

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