コント赤信号・渡辺正行、ストリップ劇場の下積みから一気にブレーク「漫才ブーム後期で時代が味方した」

 

 6月29日放送の『ぽかぽか』(フジテレビ系)に、コント赤信号のリーダー・渡辺正行さんがゲスト出演。番組MCの神田愛花さんから、関西で同期は誰になるのか尋ねられ、同期ではないが同じ68歳で活躍している方たちがたくさんいると明かしていました。

 

「(明石家)さんまさん、(島田)紳助さんは同い年なの。芸歴は全然先輩なんですけど。僕らの年は多いんですよ。小堺(一幾)さんもそうですし、具志堅用高さんもそうです。江川卓さん、竹中直人さんとか、浅田美代子さんもそうだし」

 

 コント赤信号や、さんまさん、紳助さんが世に出始めたのが、1980年から1982年。漫才がさまざまなメディアを席巻した『漫才ブーム』の時期でした。

 

『漫才ブーム』に火をつけた代表的なテレビ番組に『花王名人劇場』(フジテレビ系)、『THE MANZAI』(フジテレビ系)などがありました。

 

 

 筆者は以前、渡辺さんに『漫才ブーム』についてお話を伺っています。

 

「漫才ブームが来たときは、僕らはストリップ劇場で活動していました。番組を楽屋で見てて、『この漫才ブームには乗れないな』って思ってましたね。メンバーの(ラサール)石井と小宮(孝泰)も『もうダメだ。解散だね』って状況だったんです」

 

 その時期に3人は「最後に1本ネタを作ろう」ということになったと言います。

 

「台本を書いてきた人がリーダーになるって決めて、小宮が最初に書いてきたんですよ。それで練習したんだけどあんまり面白くなかったんです。そしたら小宮が『この台本はやめる』って下げたの。そのときに俺はリーダーをやりたかったから『今だ!』と思って、その日の夜にダァーって台本を書いて次の日に見せたんです。

 

 すると『いいじゃないか』ってなって、僕がリーダーになりました。だからあのときに小宮が面白い台本を書いていれば小宮がリーダーだったんです。これを僕らのなかでは『小宮の三日天下』って呼んでいました(笑)」

 

 その渡辺さんが書いたネタが『漫才ブーム』の火付け役となった『花王名人劇場』のプロデューサーの目にとまり、同番組に出演することになったのです。

 

「出演者が、やすし・きよし、ザ・ぼんち、のりお・よしお、今いくよ・くるよ、そこにコント赤信号ですから。ストリップ劇場からいきなり『花王名人劇場』ですよ。僕らは当時、ストリップ劇場で修業を始めてまだ1年半ぐらいで。

 

 紳助さんやさんまさんと僕らは同じ年齢なんですけど、お2人はすでに5年ぐらいやってましたから。ザ・ぼんちさんやのりお・よしおさんなんかは、もう芸歴10年で『すごいグループだな』って感じで」

 

 当時の先輩芸人の勢いはすごかったと渡辺さんは話します。

 

「関西の芸人さんはパワー漫才じゃないですか。センスとかじゃなくて勢いでワァーと……台本にしてみれば『どこが面白いんだろう』みたいな(笑)。そういう勢いの部分は僕らにはないですから。

 

 ザ・ぼんちの『おさむちゃんで~す』とか、あんなの名前を言ってるだけじゃないですか(笑)。『おっ~おっ~おさっ……』て言うのを5分ぐらい平気でやってるんですよ。なんだコレはと思って。パワーでは勝てないと」

 

 しかし、コント赤信号が番組に出演し始めた頃は漫才ブームの後期で、新しい若手が欲しいという空気だったそうです。

 

「その頃のお客さんは『売れてる人たちはひと通り見たよ』という感じで、先輩芸人も少し疲れていたんです。先輩たちは、その日すでに3本漫才をやってて『またやんなきゃいけないのか』みたいな感じで。

 

 でも、僕らは1本目ですから、グァーって集中して100%の力でやってました。そうすると『この人たちは頑張ってる』って映るから、仕事が1個1個増えていきましたね」

 

 下積みから一気にブレークしたのは、「漫才ブーム後期」という時代が味方したということでしょう。それから40年以上たった今も、渡辺さんと同じ68歳の世代の方たちはそれぞれのペースで活躍されています。

 

 なかでも『さんまのお笑い向上委員会』(フジテレビ系)、『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)といった番組で、現役バリバリの若手芸人と同じスピードで現在もトークを繰り広げているさんまさんのパワーには驚くしかありません。

インタビューマン山下
1968年、香川県生まれ。1992年、世界のナベアツ(現・桂三度)とジャリズム結成、2011年に解散。同年、オモロー山下に改名し、ピン活動するも2017年に芸人を引退しライターに転身。しかし2021年に芸人に復帰し現在は芸人とライターの二足のわらじで活動している。

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