ゆりあん主演『極悪女王』の監督・白石和彌、師からの言葉を胸に築いたバイオレンスな地位

映画監督・白石和彌(49)撮影/矢島泰輔

 厳しい残暑が続く9月の初旬。今もっとも多忙を極める映画監督・白石和彌(49)に会うために東京・銀座にある東映本社ビルを訪ねた。この日の白石は11月1日に公開される最新作『十一人の賊軍』の取材日。朝から新聞や雑誌、テレビや配信メディアまで、7つの取材に答えていた。

数々の賞を手にしてきた映画監督・白石和彌

 そして週刊女性がラストインタビュー。これまで数々の賞を手にしてきた映画監督は、やはりタフでなければ務まらない。今作は5月に公開された草なぎ剛主演の『碁盤斬り』に続く、今年2本目の時代劇。白石は今なぜ、時代劇にこだわるのか。話はそこから始まった。

「時代劇が撮りたいって『凶悪』('13年)のころから言ってきました。それから10年。ようやく撮ることができました。言霊ってあるんですよ」

 そう言って笑みを浮かべる。トレードマークの帽子が実によく似合う。

 これまで白石は『凶悪』『日本で一番悪い奴ら』('16年)などの実録モノや『孤狼の血』シリーズのような血で血を洗うバイオレンスアクションを手がけてきた。

 思えば9月19日から配信がスタートし、日本のNetflixの週間TOP10では3週連続で1位を獲得。話題を呼んだ『極悪女王』でも1980年代を熱狂の渦に巻き込んだ女子プロレスラーの抗争劇を描き、衝撃を与えている。

 『極悪女王』は'80年代の女子プロレスブームを牽引した、“最凶のヒール”ダンプ松本の知られざる半生を描いた作品。当時、ダンプと抗争を繰り広げたレジェンドタッグ『クラッシュ・ギャルズ』をはじめ、そのころ全日本女子プロレスに所属していたレスラーたちが、ほぼ実名で登場する。

 それだけにダンプ役を演じたゆりやんレトリィバァをはじめ、長与千種役の唐田えりか、ライオネス飛鳥役の剛力彩芽たちは撮影の半年前から肉体改造とトレーニングに取り組み、リングシーンはほとんどスタントなしで演じきってみせた。

 プロレススーパーバイザーとして本作に参加した長与千種(59)は彼女たちを見て、

「彼女たちがリングに上がるたびに泣けてきちゃって。いろんなものを背負って、このドラマで何か変わりたい。殻を破りたい。そういう思いをひしひしと感じて感動しました」

 完成した作品を見て白石監督自身も、

「自分が死ぬ前に見たいと思う自作がこの『極悪女王』。

 ドキュメンタリーに近い俳優たちのプロレスを見ているだけで、きっと誰かの応援歌になると思う」

 と語る。実は白石監督は根っからのプロレス好きでもある。高校時代からの親友・長尾公史さん(50)は10代のころを振り返ってこう語る。

「よく一緒に札幌の中島体育館に、全日本プロレスを見に行きました。彼の贔屓はプロレス四天王の中でも川田利明とやや地味。無骨で泥くさいけれどやると決めたらやり通す。そんな姿が白石と似ているかもしれません」

 持ち前のバイタリティーで精力的に活動している白石和彌。それにしても柔和な笑顔のどこに、狂気をはらむバイオレンスのマグマが眠っているのか。

月1本の映画鑑賞と作品の原点との出合い

 1974年、白石は北海道札幌市に生まれ、旭川市で育つ。

 小学校2年生のとき、両親が離婚。母子家庭で育った白石はすぐ近くで定食屋を営む祖父母の店をよく訪れた。

「その定食屋が幹線道路に面するバス停の目の前にあったから、映画館の人たちがよくポスターを張りに来て、2枚だけ招待券を置いていくんです。小学生のころから祖母や母に連れられ、月1本くらいのペースでロードショー公開された映画を見に行きました」

 これが幼い白石と、映画との出合い。少年野球の傍ら本を読むことも好きで、よく図書館に通った。愛読書はアレクサンドル・デュマの小説『巌窟王』である。

「主人公が無実の罪に陥れられ、監獄に送られてしまう。14年にも及ぶ獄中生活に耐え、脱獄に成功。やがて巨万の富を得て、かつて彼を陥れた者たちへの復讐を果たす。理不尽な理由で閉じ込められた主人公が、緻密な計画のもと、相手を追いつめていく姿が気持ちよくて今も読み返しています」

『巌窟王』。これが映画監督・白石和彌の原点なのか。凄まじい復讐譚は白石作品に通じるものがある。

 中学生になると街にレンタルビデオ店がオープン。母の会員証を使って、日本映画を見始めたのもこのころからだ。

「母親にバレないように、日活映画をこっそり見ることもありました。特に好きだったのが、竹田かほり主演の『桃尻娘』シリーズ。ロマンポルノですが、中身はすごく切ない青春映画です」

 映画に興味を持った白石は『キネマ旬報』などの映画雑誌を本屋で立ち読みするようになる。しかし興味を持ったのは、俳優のインタビュー記事ではなかった。

「僕が好きだったのは、撮影現場への潜入リポート。黒澤明の助監督の苦労話とか面白くて熱心に読んでいました。何より、毎回お祭り騒ぎをしながら食べていける世界があるなんて、驚きました」

 旭川西高校に進学すると、野球少年だった白石がサッカー部の門を叩く。ついにレギュラーになることはなかったが、白石は諦めなかった。

「運動神経は悪くなかったが、高校デビューですから大変だったと思います。やりたいと思ったことは、諦めずに頑張り通す。白石らしい一面が見られました」(長尾さん)

 その一方、学園祭では段取りを組んで仕切るなど率先してリーダーシップを発揮する。何よりみんなで何かをつくる高揚感がたまらなかった。

 映画の世界で働きたい。

 そんな思いが白石の中でムクムクと頭をもたげていたのかもしれない。

夢を叶えるための生活は困窮を極めて…

 白石は高校を卒業すると札幌デザイナー学院の映像学科に進む。家計が苦しく、住み込みの新聞奨学生をしながら学校に通った。高校時代の仲間にも、

「映画の世界に行くから」と言い残し、消息を絶った。

 楽しかった高校時代に別れを告げ、退路を断って前に進む。

 そんな白石の覚悟を親友の長尾さんは鮮明に覚えている。

「私も札幌の大学へ進学。大学生活に慣れたころ、白石に無性に会いたくなって実家のお母さんに連絡を取りました。しかし本人に口止めされているらしく、新聞の専売所の名前を聞き出すのが精いっぱい。そこで日曜日の午前中を狙って直接、専売所を訪ねました」

 ところが行ってみて驚いた。その新聞専売所は風呂なし、共同トイレのボロアパート。部屋をノックしても返事がない。長尾さんが恐る恐るドアを開けると、狭い部屋で布団をかぶって寝ている白石がいた。食事に誘われた長尾さんは、白石の切羽詰まった生活ぶりを知り、驚いた。

「新聞を朝夕配って学校に行く。そんな生活は大変だったと思う。自分の力だけで生きていかなくてはいけない。私には想像もつきませんでした」

 しかもわざわざ訪ねてくれた長尾さんの気持ちがうれしかったのか、

「生活が苦しいはずなのに、トンカツ定食をおごってくれました。その味が忘れられません」

 しかし、映画への道はそう簡単に開けるものではなかった。

 当時の北海道は経済状況が芳しくなく、映像関係の就職先もまったくなかった。

 新聞配達をしながら目指した映画への道。そう簡単に諦めるわけにはいかない。悩んだ末に実家の母に相談する。

「一回、東京に行ってみたら」

「骨は拾ってあげるから」

 そう言って背中を押してくれた。前向きでポジティブな性格の母には、常に勇気をもらっていたと話す白石。映画雑誌『キネマ旬報』に載っていた「映像塾」の広告を見て上京を決心する。 

 19歳の旅立ちだった。

心を揺らした、師・若松孝二監督の言葉

 筒井康隆原作の映画『ウィークエンド・シャッフル』などで知られる映画監督の中村幻児が主宰する「映像塾」は月謝3万円。ファミリーレストランで深夜アルバイトをしながら、白石はワークショップに参加した。

「この映像塾に、深作欣二、若松孝二、崔洋一といった第一線で活躍する監督が講師として来ていました。ある日、若松監督が『Vシネマの現場に助監督が1人しかいない。誰か手伝えるやつはいるか』と言うので、僕はすぐに『行きます』と手を挙げました」

 一日も早く現場で仕事がしたい。そんな思いから、白石はわらをもつかむ思いで若松組の仕事に飛びついた。

 当時の仕事ぶりを『若松プロダクション』の先輩で映画プロデューサーの大日方教史(58)はよく覚えている。

「若松組は若松監督が先頭に立って引っ張っていく現場。だから慣れた助監督でも戸惑うことが多いんです。やめていく者が多い中、わからないながらも頑張っているなという印象を受けました」

 がむしゃらに突っ走る白石は、正式に若松プロの一員となった。やがて頭角を現す。

「2、3年たってセカンド助監督になったころから、周りがよく見えるようになった。仕切りがうまいだけでなく、台本を読み込んで把握する力にも秀でていましたね」(大日方さん)

 白石自身も助監督の仕事に手応えを感じていた。

「現場で撮影の段取りをする助監督の仕事は肌に合い、フリーで多くの監督とも仕事ができて面白くて仕方がなかった」

 白石には師である若松監督に言われた、忘れられない言葉がある。

「権力の側からものを描くな。そして弱い人間の目線に寄り添うことを忘れてはならない」

 自身の家も貧しく幸せの多い家庭ではなかったから、スッと腑に落ちた。この言葉を肝に銘じ、白石は助監督として活躍の場を広げていく。

 しかしその一方で、同い年で監督として活躍する熊切和嘉や李相日、西川美和たちを見て、はたして自分は監督になれるのか。思い悩むこともあった。

 悩みを抱える白石は若松監督に、新宿ゴールデン街の飲みの席で監督に必要な資質について尋ねた。すると、

「おまえ、ぶっ殺したいやつはいるか? それを書いたらすぐ映画は作れる」

 と言及され、白石は監督になる自信をますますなくす。

「若松さんはもちろんのこと、助監督についた行定勲さんはじめ、監督として成功している人はどこか壊れている人ばかり。だから他人には理解できない感性で面白い映画を撮る。それに比べて、僕は常識人。監督はムリかな」

 30歳を前にして、周りからも評価され、仕事のできる助監督・白石の脳裏に、

「北海道に帰ろうかな」

 といった思いが宿る。

助監督から監督へ。そして師匠との別れ

 そんな白石を奮い立たせるような事件が起きる。

 それは予算のない短編を3日間で撮らなければならない現場での出来事。スタッフも少なく、撮影を終えても白石たちは、連日徹夜で翌日の準備をしていた。

 すると当時、注目を集め天狗になっていたその監督は、太鼓持ちのような俳優たちを相手に、

「あいつ寝ないでよく働けるよね」

 と、白石のことをバカにして笑った。

「言われたときは腹が立ち、殺意すら覚えました。こんな監督のためになんで一生懸命やっているんだろうと悲しくもなりました」

 結局、できあがった作品は箸にも棒にも引っかからないくらいつまらなかった。このときのはらわたが煮え繰り返るような経験から、

「こいつよりも面白いものを必ず撮ってみせる」

 そんな闘志がフツフツと湧き上がってきた。

 白石は助監督の仕事をスッパリやめると、あちこちで、監督になります、と宣言する。すると白石の仕事ぶりを評価するプロデューサーから映画の企画開発を手がける仕事が舞い込んできた。

 白石に声をかけたのはIMJエンタテインメント(現在のC&Iエンタテインメント)。

 この会社は、『ジョゼと虎と魚たち』('03年)や『NANA』('05年)などで知られ、毎月、数百本の映画企画やシナリオが持ち込まれる大手の映画製作会社である。

 ここで白石は、監督デビューするためには欠かせない脚本作りに参加する。

「犬童一心、佐藤信介たち、脚本作りのうまい監督たちと仕事することで脚本のイロハを学ぶことができました」

 このときの仲間に、『ロストパラダイス・イン・トーキョー(ロスパラ)』('10年)、『凶悪』、『ひとよ』('19年)でタッグを組む高橋泉や、『孤狼の血』シリーズ、『十一人の賊軍』、『極悪女王』でタッグを組む池上純哉(54)たちがいた。

 デビュー作『ロスパラ』にこそ、映画監督・白石和彌のすべてが詰まっていると語るのは、同作でプロデューサーも務めた大日方である。

「この作品には、底辺に生きる人たちへのまなざしや人間の多面性、不条理や反権力といった、白石が根っこの部分に持っているものがよく表れている。この作品を見て白石は監督としてやっていけると感じました」

 白石自身も今作で忘れられない思い出がある。

『ロスパラ』の試写を見た若松監督が開口一番、

「白石、寝なかったぞ」と言って褒めてくれた。

 白石もまた、若松監督の志を受け継ぐ者のひとり。 心底うれしかった。しかし若松監督と過ごす時間は、もうあまり残されていなかった。

 '12年、若松監督は交通事故でこの世を去る。くしくも白石が2作目『凶悪』の撮影に入る間際のことだった。若松監督の死は白石の青春の終わりを告げる出来事でもあった。

結果を出すため、もがき苦しんだその先に

 '99年に実際に起きた凶悪殺人事件を題材にした、映画『凶悪』を撮り、数々の映画賞を受賞。

 白石は映画監督として華々しいキャリアをスタートさせたかに見えた。しかし実生活は、火の車だった。

「妻が働き、私は幼い娘の世話をしながらアルバイトをする生活。妻から“一体いつになったらお金を稼いできてくれるんですか”と言われたこともありました。映画賞でもらった150万円もすぐに生活費で消えました。スーパーの野菜の棚卸しの面接に行って落ちたときはショックだったな」

 助監督時代とは打って変わって年収100万円にもいかないのが映画監督の実態。当時を知る脚本家で、前出の池上は監督として苦しむ白石についてこう振り返る。

「『凶悪』で賞を取ったから順風満帆かと思っていました。

 ところが知人の葬式で会ったら暗い顔をしている。理由を聞いたら原作モノの企画が通りそうだったのにダメになったと落ち込んでいました。いくら企画を立ち上げても撮影に入らないとお金にならない。監督業はつらい仕事なんです」

 見るに見かねて池上が温めていた企画を白石に託した。すると数か月後に企画が通ったと連絡があった。これが3作目になる『日本で一番悪い奴ら』である。

 監督として必死にもがき苦しむ白石。結果が出なければ、監督を廃業するしかない。そうした思いで一作一作精魂込めて映画と向き合った。

 そんな白石が沼田まほかるの原作に惚れ込み映画化したのが蒼井優と阿部サダヲがW主演する恋愛映画『彼女がその名を知らない鳥たち』('17年)である。

「僕にはキラキラした恋愛映画のオファーは来ません。恋愛経験の少ない僕なりに描ける愛はないか。そんなことを考えていたときに出会ったのがこの原作です。人間は不完全な生き物だからこそ愛おしい。汚くて不気味な陣治(阿部)が、実は無償の愛を秘めたヒーローのような人だと十和子(蒼井)が気づく。その瞬間の十和子の表情が撮りたくてこの映画を作りました」

 この作品で蒼井は日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。ラストシーン。オレンジ色の光の中で魅せた十和子の表情こそ、白石監督が描く恋愛映画の名場面として永遠に語り継がれるに違いない。

バイオレンスアクションを突き詰めて

 映画監督・白石和彌の評価を決定的なものにした作品をひとつ挙げるとしたら、迷うことなく『孤狼の血』('18年)だろう。

『孤狼の血』は清濁併せのむベテラン刑事の大上(役所広司)と清廉な若手刑事・日岡(松坂桃李)の相反するバディムービー。警察と暴力団組織、マスコミがそれぞれ自分の追い求める正義や復讐に向けて突き進んでいく。

 強烈なバイオレンスと秀逸なストーリーテリングによって灼熱を帯びた人生を生きる男たちを描き、コンプライアンス重視の世相に風穴をあけた。

 まるで『仁義なき戦い』シリーズを思わせるような作品に、東映からオファーがあった際、撮らなければ絶対に後悔すると思い、白石は引き受けた。

「『仁義なき戦い』の時代は、スタッフや俳優陣がモデルになったヤクザと兄弟分になってリアルに撮っていた。今あれをやったらリアリティーもないし、ファンタジーになってしまう。主人公を役所さんが引き受けてくれなかったら、実現できなかったと思います」

 ハリウッドデビューも果たした国際的なスターの役所を迎えて、さすがの白石も緊張したという。

 思い出すのは撮影初日のファーストカット。カットがかかると、

「いやぁ緊張した。俺、ヤクザに見えていたかな、監督」

「いやいや、ヤクザじゃないから。ヤクザっぽい警察です」

「あ、そうだ。俺、警察!!」

 このやりとりにはスタッフも大爆笑。一気に現場の空気が和んだという。

「これも僕らの緊張をほぐすためにやってくれたんじゃないかな」

 そう白石は当時を振り返る。

『孤狼の血』は'18年5月に封切られ、興行収入8億円に迫るヒットを記録。さらに同作は日本アカデミー賞で作品賞、監督賞など優秀賞12部門。役所広司の最優秀主演男優賞、松坂桃李の最優秀助演男優賞など最優秀賞4部門を受賞する快挙を成し遂げた。

 しかし'21年に公開された続編『孤狼の血 LEVEL2』は、コロナ禍でもあり製作は困難を極めた。

「前作が続編を意識せず、柚月裕子さんの原作とは違う結末を描いてしまったため、続編はオリジナル脚本で勝負することになりました。ところが私がフジテレビの連ドラが終わったばかりでまったく書けなかった。何も言わずに待ってくれた白石監督には感謝しています」(池上)

 こうしてできあがったオリジナル脚本は思っていた以上に素晴らしかった。

「何といっても日岡と超弩級のヤクザ、上林(鈴木亮平)の対決が魅力的に描かれていた。そしてヤクザを描くには不可欠の差別問題を入れたことで、物語により深みが加わったと思います」

 ラストの日岡と上林のカーアクションを含む死闘が、広島県呉市で3日間にわたって撮影され、手に汗握るハードアクションの連続に観客は酔いしれた。前作を上回る高収益を上げた『孤狼の血 LEVEL2』。

 くしくも『仁義なき戦い』から50年余りがたち、白石は東映の王道をいくバイオレンスアクションを撮れる監督として、確固たる地位を築くこととなった。

救われない声なき人の声を掬い上げたい

『日本侠客伝』『仁義なき戦い』シリーズなどの脚本を手がけた巨匠・笠原和夫氏に関する書籍『昭和の劇 映画脚本家笠原和夫』。その中で集団抗争時代劇『十一人の賊軍』のプロットの存在を知った白石は、60年前に書かれた16ページに及ぶあらすじを読み、鳥肌が立ったことを覚えている。

「名もなき罪人たちが、国境の砦に立てこもって官軍と戦うというアイデアももちろん素晴らしかった。でももうひとつ。1年かけて書いた脚本を当時の東映京都撮影所所長に“全員討ち死に!? 何考えとるんや!”とボツにされ、頭にきた笠原さんがシナリオを破り捨ててしまったというドラマチックなサイドストーリーにも惹かれ、東映さんに企画を持ち込みました」

 東映社内では、時代劇というジャンルそのものに否定的な意見が出たものの、

「これを東映がやらずして、どこがやるんだ」

「劇中で放たれる“バカは罪じゃねぇ”というセリフが象徴するように、この現代、バカげたことに失敗を恐れず挑む精神こそ必要だ」

 といった声に押され、東映のレジェンド・笠原氏のプロットを『孤狼の血』シリーズの白石・池上のタッグが映画化に挑むプロジェクトは動き出した。

「罪人が全員、犬死にしていくラストは、明るい未来を夢見る高度成長期なら警鐘を鳴らす意味でもフィットする。ただ今作は、今の時代に作る時代劇。だからこそ、弱き者が生き残り、力強く生きていく、そんなメッセージを込めたかった」(池上)

 撮影は昨年8月から11月にかけて4か月にわたって行われた。中でも9月上旬から10月下旬の2か月間は、千葉県鋸南町の元採石場に砦のオープンセットを築いた。そこには賊軍が立てこもる砦の吊り橋、大門、本丸、物見櫓はもちろんのこと、吊り橋の下には人工の川までこしらえるという本格的なものだった。

 その中で、まるで黒澤明監督の『七人の侍』に勝るとも劣らない合戦シーンの撮影が酷暑の中、連日連夜行われた。

「この映画の主人公は名もなき罪人たち。罪人になら何をしてもいい。そうした風潮が今の世の中にもある。そんな世の中でいいのか。声なき人たちの声を掬い上げる視点もこの映画の重要なテーマのひとつです」

 そう熱く語る白石。その顔から、柔和な笑みはすでに消えていた。高校2年生の娘を持つ白石には子育てに関するポリシーがある。

「子どもの骨を拾ってあげる覚悟を持っていたい。それが夢を追う子どもを持つ親の最大の役目ではないでしょうか」

 子どもに向けるまなざしは、映画界で働く夢を後押ししてくれた母と同じもの。

 ところが何年か前に、

「女優になりたい」

 と娘に言われ、

「世の中の映画監督は、パパみたいに優しい人ばかりじゃないよ」

 そう言って反対していたことを明かした。ハードボイルド&バイオレンスの世界で生きている映画監督から一転、父親の顔をうかがわせた瞬間だった。

「親の心、子知らず」なのか、はたまた「親の背を見て子は育つ」なのか─。彼の夢そのものの映画という世界で、父娘の“共演”が見られる日は来るのだろうか。

<取材・文/島 右近>

しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化・スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材執筆。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』を上梓。現在、忍者に関する書籍を執筆中。

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