藤原氏の隆盛により衰退した斎部氏、下級官人・斎部文山が歴史に名を残すこととなった稀有な才能とは?

東大寺 大仏(盧舎那仏像) 写真/GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、斎部文山です。

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中臣氏とともに倭王権の祭祀を担当した氏族

 斎部(いんべ)氏の官人もはじめてである。『日本三代実録』巻十四の貞観(じょうがん)九年(八六七)四月四日癸酉条は、文山(ふみやま)の卒伝を載せている。

散位従五位下斎部宿禰文山が卒去した。文山は、右京の人である。寒素な家から出身し、巧芸によって知られた。斉衡(さいこう)二年、東大寺の毘盧遮那仏像の頭が墮ちて地にあり、巧師でよく造り継ぐことのできる者はいなかった。文山は轆轤(ろくろ)の術を究め、雲梯(うんてい)の機を構えて、断った頭を引き上げて、大仏の頚に継いだ。あたかも新たに造ったように、既に本体に復した。貞観二年、朝廷は大法会を設け、荘厳に供養した。法会の庭に於いて、文山に従五位下の告身を賜った。すぐに緋衣を着した。観る者はこれを栄誉とした。卒去した時、行年は四十六歳。

 斎部氏は元々は忌部氏と書いた。中臣(なかとみ)氏とともに倭王権の祭祀を担当した氏族である。延暦(えんりゃく)二十二年(八〇三)に斎部と改めた。令制下においても即位式や祈年・月次祭に中臣氏と職務を分担していたが、中臣氏から出た藤原氏が権勢を拡大するに及び、神事から疎外されるようになった。大同(だいどう)二年(八〇七)に斎部広成(ひろなり)が『古語拾遺』を著わして中臣氏の専横を訴えたが、やがて衰退した(『平安時代史事典』による。佐伯有清氏執筆)。

 文山は弘仁(こうにん)十三年(八二二)の生まれ。系譜不詳。身分の低い出自であったが、工芸の技術に優れていることで名が知られた。このままでは、歴史に名を残さない下級官人で終わるはずであったが、思わぬことからその才能を発揮する機会が訪れた。

 奈良時代の天平( てんぴょう)十五年(七四三)に大仏造立の詔が発せられ、天平十九年(七四七)に紫香楽宮で鋳造が始められ、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)四年(七五二)に平城京東郊で開眼供養会が行なわれた東大寺の盧舎那仏像(いわゆる大仏。なお、鍍金の完了は天平宝字〈てんぴょうほうじ〉元年〈七五七〉、光背は宝亀〈ほうき〉二年〈七七一〉に完成している)は、延暦五年(七八六)以来、たびたび損傷を受けた。

 大仏の背面腰部に亀裂が生じ、天長(てんちょう)四年(八二七)四月に仏後の山を築いてその傾斜を防ぎ、また斉衡二年(八五五)五月には地震で大仏の頭部が落下したが、真如(しんにょ/高丘〈たかおか〉親王)を検校として貞観三年(八六一)三月に修理が完成し、盛大な開眼供養会が営まれた。

 なお、その後も治承(じしょう)四年(一一八〇)の平重衡(しげひら)による焼き討ち、永禄(えいろく)十年(一五六七)の三好(みよし)三人衆と松永久秀(ひさひで)の兵火で焼亡し、現在の胴体は室町時代末、頭部は江戸時代の元禄(げんろく)四年(一六九一)のものである(『国史大辞典』による。堀池春峰氏・町田甲一氏執筆)。

 文山が活躍したのは、斉衡二年の頭部落下に際してのことである。周知のように、大仏は計八回の鋳からぐりを重ねて鋳造されたものであり、頭部パーツのみが地震によって切り離されたのである。造東大寺所の巧師には、地に墮ちた頭部をよく造り継ぐことのできる者はいなかったが、文山は轆轤の術を究め、長い梯子を利用し「雲梯の機」(一種のクレーンのようなものか)を用いて墮ちた頭を引き上げ、大仏の頚に継いで、あたかも新たに鋳造したかのように、本体に復すことに成功した。斉衡二年には、文山は三十四歳である。

 貞観三年(八六一)に朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行なった際、文山は大仏修理の功によって、法会の場において最下位に近い従八位下から一挙に従五位下に昇叙された。晴れて貴族の仲間入りをしたことになる。この年、文山は四十歳になっていた。見た者はこれを称讃したという。

 ただし、これで貴族にふさわしい官職に任命されたかというと、そうはいかなかった。

 やはりその出自が問題だったのであろう。六年後の貞観九年に卒去した際にも、散位従五位下とある。散位というのは、位階のみあって官職のない官人のことである。結局、文山は一度も官職に就かないまま、生涯を終えたのである。なお、この頃になると位階にともなう給与も十全には支給されていなかったものと思われる。

 まあしかし、ほとんどの人間は名も残さず、誰にも知られないまま生きていくのであるから、この功績によって皆から称讃されて五位に上り(六位以下の者は薨卒伝が六国史に残らない)、こうして歴史に名を刻むことができたのであるから、何らかの能の有る人は幸せである。

 

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)

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