大人こそ読みたい『赤毛のアン』。シリーズの翻訳者が心のバイブルと出会い、全文訳を手がけるまで。

 2024年はモンゴメリ生誕150年! 『赤毛のアン』シリーズ(アン・シリーズ)は、大人の文学として再評価されている。少女時代の『赤毛のアン』から、アンの息子三人が第一次大戦に出征する第八巻『アンの娘リラ』までの五十年をこえるアンの人生と、カナダの激動の時代を描いた大河小説。昨年完結した日本初の全文訳『赤毛のアン』シリーズ(文春文庫)を手がけ、話題を呼んだ著者が、その魅力を八つの観点から解説する最新の「赤毛のアン論」、『赤毛のアン論 八つの扉』が11月20日に発売になった。本書から一部抜粋してお届けする。(続きを読む

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 なぜ『赤毛のアン』の翻訳と研究をすることになったのか、よく質問を頂きます。本書の八の扉(8章)ではそのあたりのことを書いてみます。

十四歳の秋の日とアン

 初めて『赤毛のアン』を読んだのは中学二年生の秋でした。私は図書委員をつとめ、昼休みと放課後は図書室の窓口カウンターのいすに腰かけて本の貸出返却の手続きをする合間に、背表紙から興味をひかれる本をひらき、書棚を整頓して、本に囲まれた幸せな時をすごしていました。学校近くには市立図書館があり、下校の道すがらに当時は五軒の本屋が店をかまえ、東京から届いたばかりの新刊書を立ち読みしたり雑誌を買ったりするのも愉しみでした。客間には母がもとめた筑摩書房の日本文学全集、父がそろえた中央公論社の世界文学全集がならび、私は小説を拾い読みし、自分で詩を書いていました。

 ある日、中学校の図書室で講談社の単行本『赤毛のアン』を借りて昼休みから読み始めたところ、すぐさまアンの物語に没頭したのです。午後最初のクラスはた自習時間だったのか、しばし読みふけり、次の授業が始まり顔をあげると、まるで暗い映画館から急に外に出ると見慣れた町並みが違った風景に見えるように、別の世界へ生まれ変わったような心地がしました。木造校舎の窓の外には雨上がりのもやがかかり、そこに午後の日が射して白金色に光っていました。真昼の明るく幻想的なもやを見たのは後にも先にもあの一度だけです。

 14歳の私は太宰治と谷崎潤一郎の小説に耽溺(たんでき)していました。男性作家の手による大人の男の心理を読んでいた私が、『アン』で初めて自分と同じ10代の少女に出会い、情感豊かで生気あふれるアンに心をわしづかみにされたのです。アンのロマンチックで夢見がちな感性と意欲的な向上心、モンゴメリの麗しい文体、プリンス・エドワード島の四季折々のすがすがしく神秘的な風景描写、ダイアナとの愉しい遊びと会話、また海外旅行が珍しかった1970年代ですから遠いカナダの暮らし、西洋料理と焼き菓子、手芸、ちょうちん袖のドレスにも憧れたものです。シリーズを新潮文庫で集めて、くり返し読み、『アン』は心のバイブルとなったのです。

『赤毛のアン論 八つの扉』(文春新書)

村岡花子訳の魅力

 村岡花子訳『赤毛のアン』の発行は、昭和27年(1952)です。訳文には明治生まれの文筆家ならではの古風な言葉遣いが、会話部分には古き良き時代の品のよさあり、全体の快(こころよ)いリズム、馥郁(ふくいく)として朗(ほが)らかな文体が、読書の歓びに誘います。

 村岡花子氏は歌人でもあり、わが子をこの世に迎える産着を縫い母になる日を待つ静かな喜びの一首、慈しみ育てた愛児が幼く他界して小さな骨壺を前にした悲哀の一首など、詩歌を詠む才能と語彙の確かさに感銘をうけます。

 日本で『アン』が1950年代から愛されてきた理由は、モンゴメリの優れた筆力はもちろん村岡花子訳の文章に負うところが大きく、私も十四歳で村岡花子訳に出逢ったからこそ、アンの世界を愛好し、座右の書としてきたのです。

『赤毛のアン』新訳の依頼を断る

 文学新人賞に応募して24歳で小説家になり、 4年後の1991年の春、集英社から『アン』の新訳を依頼されました。「村岡花子先生の名訳があり、私はずっと愛読してきましたので、新たに訳す必要はないと思います」とお答えして辞退しました。それに『アン』は児童書だと思いこんでいたのです。20代の私は、海外文学ではサガンとコレットを好んでパリを歩きまわり、最愛のアンの世界は愛しい少女小説の範疇(はんちゅう)と考えていたのです。

 しかしお断りした会合の帰り道、そういえば『アン』を英語で読んだことがないと気づき、書店でペイパーバックをもとめ地下鉄に乗り、さっそく頁をひらくと、冒頭に初めて見るブラウニングの詩があり、これは何だろうと不思議に思いました。日本では、『アン』はアンが11歳で島に来るところから始まるとされていましたが、原書はアン誕生の祝福から幕を開けるのです。そもそもモンゴメリの原文は一文一文が長く、単語も文学的であり、児童書ではないとすぐにわかりました。以下は第一章「レイチェル・リンド夫人、驚く」の冒頭から一つ目のピリオドまでです。

〈 CHAPTER I Mrs. Rachel Lynde is Surprised

  Mrs. Rachel Lynde lived just where the Avonlea main road dipped down into a little hollow, fringed with alders and ladies’eardrops and traversed by a brook that had its source away back in the woods of the old Cuthbert place; it was reputed to be an intricate, headlong brook in its earlier course through those woods, with dark secrets of pool and cascade; but by the time it reached Lynde’s Hollow it was a quiet, well-conducted little stream, for not even a brook could run past Mrs. Rachel Lynde’s door without due regard for decency and decorum; it probably was conscious that Mrs. Rachel was sitting at her window, keeping a sharp eye on everything that passed, from brooks and children up, and that if she noticed anything odd or out of place she would never rest until she had ferreted out the whys and wherefores thereof.〉

 文体と語彙から、子どもむけに書かれていないことは一目瞭然です。

 さらに10代から暗記するほど読んで血肉となっていた村岡花子訳が省略版だったことも初めて知りました。冒頭のブラウニングの詩のエピグラフと献辞のほかに、マシューの母がスコットランドから白いスコッチローズをたずさえてカナダに渡って来た描写、マリラがアンに「血と肉をわけた実の娘のように愛している」と語り二人が母娘(ははこ)となる感涙の場面、アンが夕暮れの墓地で来し方ゆくすえに思いをはせるしみじみとした場面、ギルバートが自己犠牲の献身でアンにアヴォンリー校の教職を譲ったとリンド夫人が語る夏の夕暮れの場面など多くの描写を原書で初めて読み、驚いたのです。

 もっとも、かつての邦訳小説は必ずしも全文訳ではなく抄訳と翻案が一般的でした。19世紀から20世紀前半の西洋文学は概して長い作品が多く、長大な原作から日本人には冗漫なところやわかりづらい部分を省き、面白い場面を選んでうまくつなぎあわせて編集するわざが翻訳者の腕の見せ所だったのです。

 また西洋文化に疎(うと)いかつての日本人には馴染(なじ)みのない西洋の衣食住の品々をわかりやすい別のものに置き換える工夫も重要でした。村岡花子訳『アン』では、棒針編みのベッドカバーがさしこふとんに、ラズベリー水がいちご水、カシスの果実酒がぶどう酒、メイフラワーがサンザシに変わっています。

 村岡花子訳『アン』で聖書由来の言葉が省かれている理由も、日本にはキリスト教徒が少ないため、アンやダイアナの民族衣装が訳されないのは、昭和の日本人にとっては移民によるカナダ人という意味合いが理解しづらだろうという配慮からでしょう。こうした村岡花子訳の省略と改変のおかげで昭和に生まれ育った少女時代の私にも『アン』は読みやすく、夢中になれたのです。そうした意味で村岡花子訳は1950年代に求められる上質な翻訳です。ほかにも『アン』の邦訳書は多数あり、村岡訳を踏襲(とうしゅう)したわかりやすい抄訳と改変版であり日本における『アン』人気を支えたのです。

 しかし1980年代からは日本でも西洋の品々が一般的になり、文芸翻訳は正確な全文訳が基本となりました。私自身、小説家であり、文体と場面は考え抜き、語彙は選び抜いて執筆します。凝った文章を書く小説家モンゴメリも正確な全文訳を望むだろうと思いました。

 西洋の名作は若い読者のための読みやすい良い抄訳が大切です。と同時に、原書通りの翻訳も大切なのです。

 こうして思いがけず『アン』の新訳に取り組むことになりました。それが今も続くモンゴメリ研究の長い道のりの第一歩であることを、20代の私はまだ知りませんでした。

プリンス・エドワード島へ

  1991年春に翻訳を始めると、すぐにカナダ旅行を手配しました。『アン』には島の風景と地形、植生の描写が多く、現地取材が重要だと思ったからです。たとえば現代のカナダ人が『源氏物語』を英訳するなら一度も日本へ行かずに光源氏の恋とあわれを訳すよりは、一度でも京都や宇治を旅するほうがよいでしょう。

 1991年夏に初めてカナダを訪れたときは、憧れの「アンの島」に来た感激はもちろん、翻訳者として「ああ、モンゴメリが英語で書いていたあれは、これだったのか!」と、見るものすべてに目からうろこが落ちる新発見の連続でした。

 たとえば、リンド夫人が暮らす窪地(くぼち)とはこういう地形だったのか! に始まり、『アン』冒頭でリンド夫人が16枚編むベッドカバー、アンとダイアナのお茶会のラズベリー水、島の乾いた赤土の色と濡れた赤土の色合いの違い、日本ではめずらしいえぞ松(とうひ)の青灰色の葉が鈍く光る針葉樹の堂々たる美、緑の葉と白い幹がさやわかな樺の木立……。

 銀色と桃色に空が光って夜が明けていき、薄青と真珠色の朝もやが淡くかかり、やがてどこまでも高い青空が広がり、緑のまき場はそよ風に波うち、歩いていく島の赤い道のセント・ローレンス湾に濃紺の海が盛りあがるように満ち、赤茶の砂岩の断崖に打ちよせる白波の音を聴き、潮の匂いをかぎます。また林をゆけば木立を吹きぬける風の涼しさに驚き、高緯度地帯の夏の8時、9時となってもなかなか暮れない金色(こんじき)の明るい夕方を初めて体験し、壮大な夕焼けに天を仰いで息をのみ、紫色に翳(かげ)っていく宵に星影がまたたき、夜の漆黒の海に昇る月の幻想美、月にむかって暗い海面に銀色の道がちらちらまたたいてのびている美しさ。モンゴメリによる麗々しい島の描写は現実の風景であり、そこにわが身をおく喜びに陶酔しました。

 モンゴメリ生家で彼女の父母の新婚までの暮らしを想い、引きとられて育ったマクニール家では家屋はすでにないものの、敷地を囲む木立の葉のざわめきを聴きながらモンゴメリが『アン』を書いた暮らしを想い、モンゴメリと夫ユーアンが結婚の誓いを述べたキャンベル家客間の暖炉の前に私も立ち、彼女が生きた日々を実感しました。

 次からの取材はレンタカーで移動しましたが、最初の旅は、島に生まれ育ち、米国テキサス州で働いて島外の暮らしも知るカナダ人男性の運転とガイドでまわり、島の習慣、食事、動植物、島民気質、そしてモンゴメリについて質問しました。島からアンのふるさとノヴァ・スコシア州の空港へ飛び、モンゴメリが大学で学び、新聞社に勤務して、第三巻『愛情』に描いたハリファクスも1991年に取材しました。

 カナダ東部とモンゴメリの故郷を旅して、『アン』を深く理解できた感激と文学旅行の意義を知った私は、それからは好きな小説の土地と作者の家を探してドイツや英国など欧米の田舎へ行き、100作品の舞台を訪れるようになるのですが、その始まりはプリンス・エドワード島旅行でした。

『アン』の原書には凝った古風な一節が多く、英詩や戯曲の一節ではないかと考え、引用かもしれない文章を700カ所、ノートにペンで書き写し、翻訳しながら出典の調査も始めました。

(「八の扉 翻訳とモンゴメリ学会」より抜粋)

松本侑子(まつもと・ゆうこ)作家・翻訳家。
​著書に、『巨食症の明けない夜明け』(すばる文学賞)、『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(新田次郎文学賞)、『赤毛のアンのプリンス・エドワード島紀行』(全国学校図書館協議会選定図書)、『英語で楽しむ赤毛のアン』、詩人金子みすゞの詩を読解した『金子みすゞと詩の王国』(文春文庫)、みすゞの伝記小説『みすゞと雅輔』など多数。
訳書に、日本初の全文訳・英文学からの引用などを解説した訳註付『赤毛のアン』シリーズ全八巻(文春文庫)など。
2022年と2024年にカナダのモンゴメリ学会で研究発表。カナダ渡航30回。

アンのタモシャンター帽、マシューが愛したスコッチローズ。『赤毛のアン』はスコットランド系カナダ人の物語〉へ続く

(松本 侑子/文春新書)

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