中国「抗日作品」多数出演の日本人女優・井上朋子さん告白 現地の芸能界は「強烈な縁故社会」女優が事務所社長に露骨な誘いも

中国ドラマの抗日作品に多数出演していた井上朋子さん

 米中関係の緊迫化とともに、近年、冷え込んでいる日中関係。日中の関係は悪化と歩み寄りを繰り返しているような経緯があるが、そんな両国のはざまで翻弄され、激動の人生を送っていた日本人女優がいた。【前後編の前編】

【写真】井上さんが驚いた強烈な「縁故社会」。中国の芸能界で“悪役”ばかり演じ続けた葛藤とは

 中国には「抗日ドラマ」というジャンルがある。日中戦争がはじまる前後の時代を描いた時代劇で、勧善懲悪の世界観のもと、ナショナリズムを発揚するような作品が多く、中国では定番の作品となっている。井上朋子さん(44)は「抗日ドラマ」における「敵役」である日本人女性を長く演じてきた稀有な女優である。

 外国籍のタレントとして初めて中国大手芸能事務所に所属した井上さんは、日本生まれの日本育ち。中国で生まれ、中国で育った日本人女優・山口淑子(1920年~2014年)は李香蘭の名でデビューし、スターとなったが、井上さんの場合は逆であった。はじめにデビューしたのは日本の芸能界。大手芸能事務所に所属し、将来が嘱望されていたタレントだった。そんな井上さんが中国芸能界入りしたのは、ひょんなことがキッカケだった。

「日本では観月ありささんの主演ドラマ『あした天気になあれ。』(2003年、日本テレビ)に出演したり、他にも映画やCMなどの仕事をしていました。でも、『先が見えない』という不安があって。2005年の終わりに心機一転、上海に語学留学することにしたんです。

 上海には友達がいたので、それまで何回も遊びに行っていました。人気の観光スポット・豫園(よえん)で小籠包を食べたり、マッサージを受けたりして、『ここ天国だな』と気に入って。もともと中国映画『至福のとき』(チャン・イーモウ監督)がすごく好きだったし、2008年には北京オリンピックもあったので、『中国語を学びに1年くらい行こうかな』という軽い気持ちで上海に移り住むことを決めました。

 中国に渡ってからは、朝8時から15時まで語学学校に通う生活をしていました。語学学校の担任の先生が、たまたま雑誌の編集者と友達で、ある日『明日の撮影で一人モデルを探しているらしいから、ちょっと行ってくれない?』と声をかけられたんです。気軽な感じだったので、私は街角スナップのようなものかと思い、自分でメイクして現場に行ったら、メイクさんがいて。全てメイクを落とされてやり直し(笑)。

 なんと雑誌『mina』(夕星社)の中国版の巻頭5ページ特集だったんです。ギャラは300元、当時のレートですと4000円くらいでしょうか。上海はファッションの街で、日本でも出版されている『mina』や『Ray』(主婦の友社)といったファッション雑誌の中国版がある。3分の1くらいが日本ページで、残りは中国のオリジナルページ。私は中国ページのモデルをやっていました。そこから次々とファッション雑誌の仕事が舞い込むようになったんです」(井上さん、以下同)

「彼女に決めた」

 20冊以上の雑誌に出るようになった井上さんのもとには、CMや広告の仕事も舞い込むようになる。中国メディアで「もし中国の雑踏で彼女と出会っても、彼女が日本人か中国人なのか、誰も見分けがつかないだろう」と評された井上さんのクールでエキゾチックな佇まいは、中国メディア関係者の注目を集めた。

「そのうちドラマのオーディションにも呼ばれるようになりました。でも、ドラマや映画の制作会社はほとんどが北京にあるので、オーディション会場も遠く、断っていたんです。そんななかで『飛行機代もホテル代も出す』という手厚いオファーをしてくれた作品があったので、行ってみようと思って。

 オーディションは日本人、中国人合わせて50人くらい参加していました。私は監督から『ニーハオで日本語でなんていうの?』と一言だけ聞かれたんです。『こんにちは、です』と答えたら、じっと見つめられて、『自分は彼女に決めた』と言われました。この監督が、現在の中国では巨匠と言われている趙 寶剛(チャオ・バオガン)監督だった。

 私、実はその人を知らなくて。『夜霧のハルビン(夜幕下的哈爾濱)』(2008年)という作品のオーディションだったのですが、『ハルビン遠いし、行きたくないなー』と思っていたんです。でも、数少ない俳優の知り合いだった董志華(ドン・ジーホウ。『カンフーハッスル』などに出演)に相談したら、『え! 趙監督なの!? お金を出してでも出るべきだよ! ハルビンに行きたくないなんて言っている場合じゃない! 出演したらスターへの道が約束されるんだよ!』と諭されて、出演を決めました(笑)」

『夜霧のハルビン』は1930年代、日本の支配下にあった満州国ハルビンが舞台となっている。共産主義者と愛国者が日本人侵略者と対峙し戦う物語である。ドラマのあらすじには「敵国日本」についてこう書かれている。

〈1934年、ハルビン。日本の侵略者と傀儡満州国の陰鬱な支配下にあった。日本と満州国は自らの支配を強化しようと努め、地域の安定化を図る一方で、共産主義者や抗日勢力を狂ったように逮捕、虐殺する〉

 主人公は共産党員のリーダーで抗日活動を主導した王一民。ヒロインはハルビン一の富豪の娘であり、日本に留学経験のある外科医・魯秋影である。魯秋影は心ある教育者として描かれている日本人男性・玉旨一郎と結婚を決めるものの、それが関東軍の仕組んだ政略結婚だと知り、別れることになる。井上さんは関東軍の大将の娘で、最終的に一郎と結婚する本庄見秀役を演じた。中国人ヒロインの恋敵という役柄である。

「最初は日本語で演じるという話だったのが、主演俳優が『日本語だと響かない』と言い出して、いきなり中国語で演じることを求められました。まだ中国語も上達していなかったので周囲が何を言っているかもわからない。台本を読むのに1ページ2~3時間かかる。日本でドラマに出てましたが、そもそも演技の勉強をしたこともなかった。それが慣れない中国で演じるわけですから、何度も監督に『ロボットみたいだぞ』とダメ出しされました」

 ドラマのロケ地であるハルビンはヨーロッパのような街並みに中国人、ロシア人が行き交う異国情緒溢れる街だった。井上さんにとって新鮮な経験ばかり。しかし、ドラマの撮影は過酷だった。街中だけではなく草原や砂漠といった郊外での撮影も多かったからだ。

「郊外の草原や砂漠のロケではトイレがないのです。中国の女優は平気なようで、外で用を足していました。でも、私には本当に無理で。撮影中は水分を取らずに過ごしていました。

 また、趙監督は拘りが強い人で。結婚のシーンでは、松花江という川で一日がかりの撮影をしました。夕暮れで光の加減が幻想的になるタイミングを待って、河原で三々九度を演じ、契りを交わすシーンを撮影しました。でもこの結婚は政略結婚なのです。最後は中国人の主役がヒロインと結ばれる一方で、日本人の一郎は絶望と戦争への嫌悪感から自ら命を絶ってしまう。同じく日本人である私が演じた見秀も、一郎の死を知り、錯乱しように河を彷徨い歩く……という壮絶なラストシーンを迎えます。その撮影はとても過酷でしたね。

 他にも撮影中に苦労したことはたくさんあります。スタッフ用のホテルに投宿したら『ここは外国人NG』だと言われ、いきなりホテルを移動させられたり。俳優陣も『朋子と出会って日本人の印象が変わった』と言ってくれる人もいれば、『どんなつもりで中国で仕事しているの?』としつこく言ってくる人もいた。そんな人には『嫌なら話しかけないで!』と言い返していました。本当に慣れないことだらけで、全てに悪戦苦闘していました。ちなみにこの時のギャラは1話5000元(当時のレートで7万円弱)でしたね。私が出演したのは10話分だったので、全部でギャラは5万元(当時のレートで70万円弱)ほどもらえました」

高級時計を贈るのは当たり前

 趙監督は厳しいという噂だったが、井上さんには優しかったという。「きっと中国語が上手くないから、怒りにくかったんだと思います」と井上さんは笑う。現代劇で知られる著名監督だった趙監督が手がけた初めての「抗日ドラマ」が『夜霧のハルビン』であり、井上さんの抗日女優のキャリアはここからスタートした。

「趙監督から『中国で役者を極めたいなら上海より北京に移住すべきだ』と言われました。北京のほうが制作会社やスタジオなどもたくさんあるからです。私は決意を固めて語学学校を辞め、北京に移りました。するとアドバイス通り、オーディションに多く呼ばれるようになったのです。

 北京では日本大使館経由で様々な芸能界の人を紹介してもらいました。まずは所属事務所を探したのですが、いろんな事務所を回ったなかでいちばん良いなと思ったのが海潤(ハイウォン)という事務所でした。

 海潤は、女優の孫儷(スン・リー。中国ドラマ『月に咲く花の如く』でヒロインを演じる。日本でもサントリーウーロン茶のCMに出演)さんなどが所属する中国では4大芸能事務所の1つと言われていた事務所で、事務所自体が抗日作品を多く制作する制作会社でもありました。私は事務所と、『年4本作品に出る』という契約を結びました。

 中国のドラマは、制作会社が撮影してテレビ局に売り込むという仕組みになっています。だから撮影してもテレビ局に買われずお蔵入り、ということも数回ありました。その分のギャラは俳優や女優には支払われるのですが、制作会社は赤字になります。それで経営が立ち行かなくなってしまう制作会社も多々ありましたね。厳しい世界だなと思いました」

 他にも井上さんがとくに驚いたことは、中国の芸能界が強烈な「縁故社会」だということだ。

「芸能事務所の力で仕事を取るというよりも、俳優の個人的な繋がりで仕事をもらうことが多い。俳優が監督に高級時計など高額な贈り物をするのは当たり前。とくに女優は数が多く競争が激しいから皆必死です。ある芸能事務所の社長と大勢で円卓で食事していたときのことです。フリーランスの女優が社長の隣に座り、『私、今日大丈夫です』と迫っていた。

 社長は『はいはい』という感じで流していて、両隣に人を座らせて女優が側に寄ってこれないようにしていたのですが、そうしたらその女優はなんと、円卓の下に潜り込んで社長の膝の間から顔をにゅっと出して、『行かない?』とアプローチを始めたんです。色仕掛けを隠さないことにビックリしました。やはり中国は人口が多いし、競争が激しいんだと改めて感じました」

 そうして、中国の芸能界に足を踏み入れていった井上さんだが、その後のキャリアで「抗日作品」における“悪役”ばかり演じ続けたのはなぜなのか。どんな葛藤を抱えていたのか。告白は後編へと続く。

後編へ続く】

◆取材・文/赤石晋一郎(ジャーナリスト)

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