一条天皇の最期「定子と彰子」誰に想いを残したか

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京都御苑(写真: farmer / PIXTA)
NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第36回は一条天皇が最期に詠んだ和歌に残された謎について解説する。
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「定子を愛した一条天皇」を愛した彰子

自分以外の誰かに気持ちがある人に振り向いてもらうのは、簡単なことではない。

藤原道隆の長女・藤原定子と、藤原道長の長女・藤原彰子は「一条天皇の寵愛を受けて、子どもを授かること」を使命として親に送り込まれた……という点では同じである。

2人の大きな違いは、彰子の場合、自分が入内したときには、すでに一条天皇には、最愛の人がほかにいたということだ。

正暦元(990)年、一条天皇は11歳で元服。数日後に道隆の娘で15歳の定子が入内することになる。兼家が出家し、道隆が関白、次いで摂政となったのは、この数か月後のことだ。まさに道隆が絶頂期を迎えるなか、一条天皇と定子は出会い、距離を縮めていく。

そんな一条天皇と定子が出会った年に、道長の娘である彰子はどうしていたか。3歳になり、初めて袴をつける儀式「着袴の儀」が執り行われていた。

それから10年弱の時が流れて、彰子もまた一条天皇のもとに入内して、6日後に女御宣旨が下される。長保元(999)年11月7日のことだ。奇しくもこの日の早朝に、一条天皇と定子との間に、第1皇子となる敦康親王が生まれている。

このとき一条天皇は20歳、定子は23歳。一方、彰子は12歳にすぎず、定子が生んだ敦康親王の養母になるとは、本人はもちろん、誰も想像しなかっただろう。

養母として敦康親王を大切にした

一条天皇のもとに第1皇子が生まれたのは、喜ばしいことだったが、宮中には手放しで喜べない事情があった。

というのも、定子は兄・伊周の不祥事で出家した身だった。それにもかかわらず、定子を職御曹司(しきのみぞうし)にわざわざ移してまで、一条天皇が寵愛したことについて、宮中では不穏な空気が流れていた。藤原実資は『小右記』で「はなはだ稀有のことである」と苦言を呈している。ほかの公卿たちも同じ気持ちだったことだろう。

そんな声を物ともせず、一条天皇は定子との間に、1男2女をもうけることになる。だが、第3子となる次女を出産したのち、定子は体調を崩して病死してしまう。

道長からすれば、娘の彰子が一条天皇との間に子を成してくれるのがいちばんだが、現時点では第1皇子・敦康親王をバックアップするほかない。自身は後見役を担いながら、彰子を敦康親王の養母とすることで、娘に朝廷での影響力を持たせようとした。

一方の彰子からすれば、14歳にして養母として定子の忘れ形見を支えながら、定子を忘れられない一条天皇の気を引いて、世継ぎを生む……という、なんとも複雑な役割を担うことになった。

父から背負わされた運命に、何もかも嫌になる夜もあったのではないだろうか。紫式部がいうところの「あまりものづつみせさせ給へる御心」(あまりにも控えめな性格)である彰子は、己の感情を露わにするタイプではないため、その胸中はわからない。

ただ一ついえることは、彰子にとって幼き敦康親王は、かけがえのない存在になったということだ。自身に子どもが生まれてからの彰子の態度に、そのことがよく表れている。

寛弘5(1008)年9月11日、21歳の彰子は一条天皇との間に第2皇子として、敦成親王をもうける。彰子が入内してから、約9年の月日が経っていた。父の道長と母の倫子が、歓喜したことは言うまでもない。

やがて一条天皇が重い病に伏せると、皇太子の居貞親王への譲位が行われるなかで、おのずと「誰が次の皇太子になるか」に注目が集まった。

道長は敦成親王を皇位継承者にするべく、行成を通じて一条天皇を説得。一条天皇としては、亡き定子が生んだ第1皇子の敦康親王を後継者にしたかったが、押し切られるかたちとなった。

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一条天皇の陵(写真: クロチャン / PIXTA)

これに怒ったのが、意外にも彰子だった。一条天皇の意向に従って、敦康親王こそ次の皇太子にすべきだと、彰子は考えていたようだ。養母としてともに月日を過ごした彰子からしてみれば、我が子が生まれたことで、敦康親王が追いやられるような事態は耐えがたかったのだろう。

道長にはとてもではないが、受け入れがたく、かつ、理解できない娘の要望だったに違いない。従来の方針通り、彰子の子であり、自分の孫である敦成親王を皇太子に据えさせた。彰子はそんな父・道長のことを「怨み奉られた」(『権記』)という。

随所に見られた彰子の細やかな心遣い

自分の子が厚遇されることを誰もが願ったこの時代に、彰子の思いやり深さは、特筆すべきことだろう。

彰子がどんな女性だったのか。それがわかる史料は乏しい。だが、残した和歌からも、柔らかな性格が伝わってくる。

彰子の出産から遡って3年前の寛弘2(1005)年10月に、敦康親王の石山詣が行われると、父の道長や母の倫子、祖母の穆子、妹の姸子が同行することになった。当時、17歳だった彰子は妹の姸子にあてて、こんな和歌を贈っている。

「人をのみ 思ひやるまにこのごろは 関に心の 越えぬ日ぞなき」

(あなたのことばかりに思いを馳せるうちに、心が逢坂の関を越えていかない日はないのです)

それから2年後の寛弘4(1007)年に、母の倫子が44歳で末妹の嬉子を出産すると、彰子は、子の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式「産養」を主催。白い織物衣と綾の産着などを母に贈って、道長を感動させた。

「中宮よりこのような贈物があるのは、めったにないことだ。かえって面目が施された。未だ家から立たれた皇后が、母のためにこのようなことをなさったことはない。百年来、聞いたことがない。以前の人は、親の老後に立后されたのである」

(『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』倉本一宏訳、講談社学術文庫より)

いずれの逸話も、まだ自身が身ごもる前のことであり、周囲から世継ぎのプレッシャーをかけられるなかでも、常に自分以外の誰かを気にかける、彰子の思いやり深さがよく伝わってくる。

その一方で『紫式部日記』では、式部から漢文を教えてもらいたがる彰子の様子が描かれている。彰子は唐の詩人・白居易の『白氏文集』をリクエストしたという。幼少期から漢文に触れて、側近からも「好文の賢皇」と評された一条天皇に、少しでも気にかけてもらいたいと、彰子は密かに日々心を砕いていたのだろう。

そんな彰子だから、24歳で夫の一条天皇を亡くしたときの悲しみは深かった。寛弘8(1011)年の出来事であり、一条天皇は32歳でその生涯を閉じている。

藤原行成の『権記』によると、一条天皇がいまわの際で、力を振り絞って最後に詠んだのは、こんな和歌だった。

「露の身の 風の宿りに君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき」

この「君」とは誰のことなのか。

行成は「成仏し切れない定子を置いて、自分だけが成仏するのは悲しい」と解釈したようだ。

一方、道長の日記『御堂関白記』では「事ぞ悲しき」のところが「ことをこそ思へ」となっており、道長は最期にそばにいたのが彰子だったことから「一条天皇は彰子を置いていくことが心残りだった」と解釈している。

「亡き定子を愛する一条天皇」をも愛した彰子自身は、どちらでもよかったのではないだろうか。彰子は、親の死を理解していない敦成親王のことが、ただただ不憫だったようだ。

親王が撫子(ナデシコ)の花を取ると、その姿から、彰子はこんな歌を詠んだ。

「見るままに 露ぞこぼるるおくれにし 心も知らぬ 撫子の花」

(いとしい我が子の姿を見るにつけても涙の露がこぼれる。後に残されたことも知らないで、撫子の花を手にした愛しい子よ)

その後、板敷を取り除いて土間とした土殿に移った彰子。素服を身にまとい、喪に服している。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)

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