相川七瀬「40代で見つけたロック以外の新しい軸」

(撮影:梅谷秀司)
人生100年時代。自らの意思と行動で何度も花を咲かせる人たちがいる。今回、登場するのは、歌手の相川七瀬さん。
デビュー曲『夢見る少女じゃいられない』がメガヒット。数々のヒット曲を世に放ち、ロック少女として時代を席巻した相川さんも現在、49歳。今年で歌手生活29周年を迎える。一方、母としては3人の子を育ててきた。さらには、今春、大学院に進学。神道の研究者への道を歩んでいる。彼女はいかに学ぶことへと導かれ、40代から新たな道を切り拓いたのか。
(前後編の前編/後編に続く)

若い頃に置き忘れた人生を取り戻したかった

――今春から大学院に進学されたとのこと。おめでとうございます。40代から大学も大変だったと思いますが、まだまだ学びたかったのでしょうか?

やっとスタートラインに立てたという気持ちです。私は学校生活がうまくいかず高校も途中で辞めてしまったし、皆さんが若い時に経験したことをやり残してきたような気持ちがありました。

40代になって大学に入りたいと宣言した時、周囲には「学部の授業はコマも多く大変だよ。社会人だし、研究したいなら学部を飛び越えて大学院に行けばいい」と言われたんです。でも、私の目的は学位だけじゃない。どこか自分の人生を取り戻すことだったんですよね。

――心残りがあったんですね。

はい。だから、近道をしたいわけではなく、一歩一歩進むことが必要でした。高卒認定をとり、大学受験をする。そういうスタートラインに立ちたかった。遅れてきた青春を取り戻すようにキャンパスライフを楽しみながら学び卒業しました。院に進学してやっとこれからが本番だという気持ちでいます。

――受験や大学生活には、どんな思い出がありますか。

実は長男と私の大学受験は同年だったんです。だから、勉強で、分からないところは長男に教えてもらったりもしていました。

大学入学時はコロナ禍だったので、最初の2年は失われたところもありましたが、私からクラスメートとLINE交換して、サークルも入ったし、仲良しの女子グループで沖縄に卒業旅行に行ったり。本当に楽しい4年間でした。

――世代を超えたいい友達もできたんですね。

長男と同世代で、20歳以上も年下の同級生たちにとって、私は不思議な存在だったんじゃないかな。同級生としての会話もするけど、時々、「コレはよくないんじゃない」なんて、お母さんみたいなことも言うから(笑)。

(撮影:梅谷秀司)

私も彼、彼女たちから学ぶことは多々ありました。彼らの世代でも十分に大人だし、いろんなことをしっかり考えているんですよね。自分の子どものことは、いくつになっても子ども扱いして心配してばかりいたけど、同級生たちと付き合って、長男への見方も変わりました。

大人の学び直しのコツは小さな山から登ること

――とはいえ、40代でイチからの学び直しは体力的にも時間的にも大変です。今から大学受験なんて考えられないという同世代は多いと思います。

私もいきなり大学受験しようと思ったわけじゃないんです。最初は、興味を持っていた神道を学んでみたくて、國學院大学の科目履修生になりました。学ぶほどに興味も意欲も大きくなって、通っているうちに「この学部面白いな。入りたいな」と。「そのために必要なものは? そうだ、高卒認定を取らなければ!」と挑戦してみることに。

――大学受験までに、思考と行動を積み重ねていた準備期間があったんですね。

私、器用ではなくて……コツコツじゃないと安心できないんです。最初から大学に行こうという目標を掲げたら、それは大きな山だから登れる気がしなかったと思います。まずは科目履修生、次に高卒認定……と、頑張れば届きそうな山を作って何とか登り切る。その成功体験を自分に覚えさせて、「やれる。まだもう少し行ける」と言い聞かせながら一歩一歩進んできました(笑)。

――社会人からの学び直しとして理想形です。

社会人の入学は10代で高校卒業し大学に入るのとは違います。学校や学部も偏差値で選ばない。本気で興味のあることを教えてくれる場所を必然的に探します。自分の時間とお金をかけて学びを選んでいるから、入学してからも全てが血肉になる感覚でした。

また先生や同級生との出会いも貴重なものになりました。

――大学時代は、成績1位になられたこともあるとか。

大学2年生の時ですね。実はあの年は最もキツい年でした。

学業と仕事と家庭の両立と葛藤

――どんなことがキツかったのでしょう?

大学生活の4年間で何がいちばん大変だったかというと、やはり、仕事との両立でした。大学2年時は、ミュージシャンとしては25周年で全国ツアーも回っていたから、とにかくスケジュールがハードだったんです。

大学に行くにあたって家族に相談していたんですけど、当初は「本当に大丈夫なの?」という反対意見もありました。最終的には理解してもらったものの、「行かせてもらっている」という思いがどこかにあったんですよね。決めたからには後には引けない、絶対に4年で卒業しなきゃという意地がありました。でも、仕事もきっちりやらなきゃならないし、家庭のことも頑張らなきゃいけないと。

――全てに手を抜けなかったんですね。

家族は協力的でしたけど、自分で自分を追い詰めてしまっていたんです。自分でなんとかしよう、睡眠時間を削って乗り切ろうとしていたけど、歌い手としてはコンディションも整えなくちゃならない。25周年ツアーの時はもういっぱいいっぱいでした。それでも、仕事と家庭と学業と3つをやり切るんだという精神力だけで突き進んだ結果、いちばん辛かった年の成績が1位だったんですよ。これは本当に自分の努力が報われた気がして、素直にすごく嬉しかったです。

――ちなみに、神道を学ばれ、研究されているわけですが、そもそもロックミュージシャンだった相川さんがなぜ神道だったのでしょうか?

ここ10年以上、神社の神事で歌わせていただいたり、赤米大使(長崎県対馬市、鹿児島県南種子町、岡山県総社市の3地域に伝わる赤米神事の伝統文化を広めるために活動する大使)をやらせていただいたりもしていることもありますが、実は最初に神道に興味を持ったのは、25年以上も前のことです。23歳くらいの時かな。

――それはだいぶ早いですね。きっかけは何ですか?

23歳の頃、イギリスに数カ月間、ホームステイ留学していたんです。ホストファミリーは日本人のご家庭だったんですけど、私が帰国する時に一冊の本をくださって。それが神道の本でした。かつて春日大社の葉室頼昭さんが書かれていた『〈神道〉のこころ』という本。

「あなたはアーティストだから英語はしゃべれたほうがいい。でも、もっと大事なのは日本語だ」という言葉とともに、この本を渡されて。この本には、神道や神話のこと、母国語をきちんと理解して話すことの大切さについても書かれているんですよね。帰りの機内で読んで、もう感動しちゃって! 

――海外で日本の心について知る機会を得たという。

それまでは、海外の聖地と呼ばれるような場所を旅するのが好きだったんです。たとえば、ネイティブアメリカンの聖地・セドナとか。それまで聖地は遠くにしかないと思っていましたけど、日本にこそあるんだと。日本ってすごい神の国なんだと気付かされて、ツアーのたびに全国の神社を巡り、その土地の神社のお祭りにも参加するようになりました。

伝統を残していくことに関わっていきたい

――近年は、神社を巡ることもブームになっていますが。

私の神道への興味は1998年から始まりました。御朱印帳も今でこそカラフルで可愛いものが揃っていますけど、私が集め始めたのは、渋い本格派の御朱印帳しかなかった時代ですね(笑)。20年前からプライベートで神社巡りしているから、そこで出会った神職の方々も、次第に役職が上がって宮司になっていたり、ご子息が私と同級生だったり、人生面白いなと思います。

20代の頃から、神道が私の中で一本の筋としてあった中、30代の時に、赤米の神事に出会いました。歌手としては伊勢神宮で歌わせていただく機会もいただいた。40歳になる頃には、ロック歌手としての顔だけではなく、和の曲を歌う自分とも並走するように生きていくんだなという覚悟のようなものが自分の中に芽生えていました。だから、神事やお祭りについて学びたいし、この伝統を残していくことに関わっていきたいと、フツフツと思い始めたんです。

(撮影:梅谷秀司)

――40代から新たな道を切り拓いたものの、その糸口はもうずっと前からあったんですね。

ホントに不思議なご縁だなと思います。

――神道を学んでよかったこと、人生への影響はありますか?

たくさんあります。歌手としては、大学に通う以前、10年以上前に神道からもインスピレーションを得た『今事記』というアルバムを出しています。これは東日本大震災を経験したことも大きくて。あの未曾有の事態で、「私は何のために歌っているのか?」と自問自答した末に、ロックな歌のみならず、40代は人の心に寄り添える歌も歌いたいなと思って作った、静かで精神的なメッセージを込めたアルバムです。

60代の自分を見据えて、今、歌うべきもの

――大きな方向転換ですね。

ロックな自分も変わらずありつつ、もう一本の軸ができたというか。私が年齢と経験を重ねながらも歌い続けていくためにも必然の変化だったのだろうと、今は思います。実際、このアルバムがあったからこそ、全国の神社で歌わせていただく、機会もいただけているんだろうなと思いますし。

昨年にリリースした「中今」というアルバムも、続編のような作品です。パンデミックや、ウクライナのこと、世界がどんどん変わっていく中で、自分が今感じていることを歌にして残しておく必要性があると強く思いました。

そうしないと、私はきっとこの先の人生でも迷ってしまう。60代の自分を見据えて、今、歌うべきだと感じたことを歌いました。そんなふうに考えられるようになったのも、神道に出会ったから、本気で学び直したからだと思います。

(後編に続く)

(芳麗 : 文筆家、インタビュアー)

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