一定以上の円高はない前提の「カジノ経済」の末路

為替レート

日本の銀行は極めて効率の悪い資金運用をしているように思える。しかしそれは、リスクを取らないために、必要なことなのだ(写真:artswai/PIXTA)
7月末の暴落以前の株価は、為替レートが1ドル=153円程度以上に円高にならないことに賭けた「カジノ経済」だった。これがいま崩壊しつつある。昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。野口悠紀雄氏による連載第128回。

円キャリー取引は、巨額の利益をもたらす

この数年間の間に、急速な円安が進んだ。これを引き起こしたのは、円キャリー取引だ。

円キャリー取引は、円を借りて資金を調達し、それをドルに変換する。ドル資産の金利が高く、日本円での調達金利が低いので、金利差に相当するだけの利益を上げられる。この取引は、円を売ってドルを購入するため、円安の原因となる。海外のヘッジファンドなどが行ったとされる。

日米金利差を2年国債利回りで評価すれば、年率で4.5%程度になる。この金利差は、日本国内における銀行の利ザヤと比べると、非常に大きい。三菱UFJ銀行の2023年度決算説明資料によると、銀行単体での利ザヤは0.75%だった。これと比べると、日米間金利差が4.5%というのは、6倍もの大きさだ。

メガバンク平均で見ても同様だ。預金と貸出金の利回り差は、2020年3月期以来4年ぶりの高水準になったとはいうものの、0.78%だった。

以上の数字を見ると、日本の銀行は極めて効率の悪い資金運用をしているように思える。しかしそれは、リスクを取らないために、必要なことなのだ。これを「まともな世界」と考えると、円キャリーが生み出したのは、それとは異質の世界だった。それが、ここ数年の日本経済を引っ張ったのだ。

では、円キャリー取引は、どの程度の規模だったのか? これについては、さまざまな推計があり、推計額には大きな差があるのだが、1つの目安になるのは、「緩和への慢心、市場揺らす」(2024年8月14日、日本経済新聞)という記事の中で、筆者のジリアン・テットが、次のように述べていることだ。

「国際決済銀行(BIS)は、国境を越えた円建ての借り入れが21年の終盤以降に7420億ドル(約109兆円)増加したと報告している。また、スイスの大手銀行UBSは、今年、5000億ドル前後のキャリートレード累積投資残高があったと推計している。」

約109兆円という残高は、極めて巨額だ。前述した三菱UFJ銀行2023年度決算説明資料によると、銀行単体での預金平残は189兆円だ。109兆円は、この半分以上になる。

これが仮に金利差4.5%程度で運用されたとすれば1年間で5兆円を超える利益をもたらしたことになるだろう。

「1ドル=153円以上にならない」ことに賭けたカジノ経済

円キャリー取引は、一見すると、契約時に確定してしまう金利差という条件で利益が決まるリスクのない取引(こうしたものを「裁定取引」という)のように見える。しかし、実はそうではなく、契約終了時の為替レートという不確実な条件に依存した、きわめてリスクの高い取引なのである。

この取引が利益を生むためには、将来の為替レートが一定値以上に円高にならないことが必要だ。なぜかを説明しよう。

今年の7月初め頃、為替レートが1ドル=約160円であった頃を考えよう。日本円で160万円を借りて1万ドルに変換し、それをアメリカの資産に投資したとしよう。

この利回りが4.5%だったとすると、1万ドル投資すれば、1年後に10,450ドルになる。他方、1年後の為替レートが1ドル= e円であるとしよう。すると、これを円にすれば、10,450e円になる。 

簡単化のため、日本円での借入金利をゼロとすれば、これが借入額160万円を上回る条件(円キャリーが利益をもたらす条件)は、10,450e>1,600,000、つまり、e>153だ。

つまり、この取引は、「1年後の為替レートが1ドル= 153円より円高にならない」ことに賭けた投機なのである。

「1ドル=153円以上に円高にならない」というのは、いまにして思えば、ずいぶん強気な投機だ。

現実の為替レートはすでにこれより円高になってしまっているから、この取引を来年の7月まで持ち続けていれば、損失を被る危険性が高い。だから、いまのうちに取引を手じまってしまおうということになる。

これを「円キャリーの巻き戻し」と言う。円キャリーが巻き戻されると、ドルが売られ円が買われるので、為替レートは円高になる。そしてそれがさらに円キャリーの巻き戻しを呼び、さらに円高を招く。

実際の円キャリー取引の巻き戻しの実態についても、さまざまな推計があり、はっきりしたことはわからないのだが、すでにかなりの巻き戻しが起きていることは間違いないようだ。

リスク感覚が麻痺したミセス・ワタナベ

上で述べた条件は、より一般化できる。結論だけを述べると、日米金利差を4.5%とすれば、取引を始めたときの為替レートが1ドル=g円であれば、「1年後の為替レートが1ドル=0.956gより円高にならない」ことが円キャリーが利益をもたらす条件である。

しかし、為替レートが5%程度変化するのは、大いにありうることだ。そして、プロの集団であるヘッジファンドは、当然それを意識している。

ところが、一般の人々が行う取引では、この条件が正しく意識されているとは限らない。そして、一般の個人であっても、円キャリー取引と同じことが簡単にできるのである。それは、FX取引(証拠金外国為替取引)において、スワップ取引を行うことだ。これは、円を売ってドルを買う取引だ。そして金利差に相当する額をスワップポイントとして受け取る。

この場合も、利益が出るためには先に述べた条件が必要だ。ところが。実際には、こうしたことが意識されていなかった可能性がある。

実際、「ポイント取引によって生活費を稼げる」などと言われたこともある。しかし、前記の条件が満たされなければ、取引を終了するときに巨額の評価減が発生し、それまでのポイントは一切帳消しになってしまう危険があるのだ。

今回の円安過程において、こした取引が実際に行われたかどうかは明らかでないのだが、2007年頃の円安進行時においては、個人によるスワップ取引が盛んに行われた。これは「ミセス・ワタナベ」として世界的に有名になったものだ。

7月初めごろの株価水準に戻るのは容易ではない

カジノ経済とは、このように、プロの取引者だけではなく、リスク感覚が麻痺してしまった一般人をも巻き込んで、進行していく。

そして、円安が進むと、企業利益が増大するので、株価が上昇する。

ところが、円キャリーに支えられた為替レートは、非常にボラティリティの高いものであり、そして株価は円安によって支えられたものだったので、やはりボラティリティの高いものだった。

問題は、このことを認識せずに株式投資を始めた人が多かったのではないかと考えられることだ。以上で述べたようなリスクは、投資家には十分に伝えられていなかった。そのリスクが、7月末から8月初めにかけての株価大暴落で顕在化したのだ。

以上の見方が正しければ、7月初めごろの株価水準に戻るのは容易でないということになる。

(野口 悠紀雄 : 一橋大学名誉教授)

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