多摩モノレール延伸区間「幻の鉄道計画」の顛末

多摩モノレール

多摩都市モノレールの箱根ケ崎方面延伸計画は、かつての「武州鉄道」計画路線と経路がよく似ている(筆者撮影)

多摩センター駅と上北台駅の間、約16kmを結んでいる多摩都市モノレールの延伸に向けた機運が高まりつつある。現在、同モノレールには箱根ケ崎方面、町田方面、八王子方面への3つの路線延伸構想が存在する。

このうち、事業として最も進んでいるのは上北台駅(東大和市)から武蔵村山市を経由し、JR八高線の箱根ケ崎駅(瑞穂町)に至るおよそ7kmの区間だ。2023年末には東京都が都市計画案を示し、2024年3月には沿線の瑞穂町がモノレール新駅周辺の「まちづくり基本構想」を公表するなどしている。都内で唯一、鉄道駅のない市として知られる武蔵村山市にとっては待望の延伸である。

実はこの上北台―箱根ケ崎間の延伸区間は、昭和30年代に計画され、未成線に終わった「武州鉄道」の路線の一部と経路が非常によく似ている(戦前に埼玉県の蓮田駅を起点に運行されていた「武州鉄道」とは別会社)。この武州鉄道計画は、後に元運輸大臣が逮捕され、有罪判決が下る政界汚職事件「武州鉄道事件」へと発展した。以下、武州鉄道とはどのような路線だったのか、見ていくことにする。(文中敬称略)

秩父に至る山岳モノレール計画

1959年1月に提出された武州鉄道(資本総額41億5000万円)の敷設免許申請書によれば、その計画路線は、中央線の三鷹駅(三鷹市)を起点として、小金井市、小平町(西武国分寺線の鷹の台駅付近と推定)、国分寺町、大和町、村山町、箱根ケ崎駅、東青梅駅(青梅線)、埼玉県名栗村、横瀬村を経由し、秩父鉄道の御花畑駅(秩父市)に至る、全長およそ61km(地区名は当時のもの。申請後、間もなく吉祥寺駅に起点を変更)。その間に33カ所の停車場を設置するという壮大なものだった。

また、申請書には軌間「一米〇六七」(=1067mm)とあり、当初は普通鉄道での敷設を計画していたが、かなり険しい山岳地帯を通過するため、後に登坂力などに優れたゴムタイヤ式のモノレール案に変更されたようである。日立製作所で東京モノレールなどの計画・建設に携わった網本克己が、次のように語っている。

「(武州鉄道は)実は、モノレールでやる計画であったんです。はっきりとは覚えていないが、(工事)施行認可申請の施行方法変更でモノレールにすることになり、僕は、夏の暑い盛りに1週間カン詰めで吉祥寺の武州鉄道の事務所でモノレール計画の作業をしたんです」(『モノレール協会10年の歩みを振り返って』1974年頃)

多摩モノレール カーブ走行

ゴムタイヤ式のモノレールは登坂力が高く、山岳路線にも向いている(筆者撮影)

では、このような壮大な路線を計画したのは、一体どのような人物だったのかといえば、意外なことに、それまで鉄道とはまったく関わりのなかった吉祥寺のスクラップ事業者の滝嶋総一郎という人物だった。

鉄道と無縁の事業家が政界工作に奔走

滝嶋は戦時中、立川の陸軍技術研究所の兵器係曹長だったが、戦後、米軍との関係を築き、旧陸軍の兵器・器材の払い下げを受け、スクラップとして売却する事業を開始。朝鮮戦争勃発により、スクラップの値段が高騰し、財を成すと、昭和30年代に入る頃には不動産貸付業などにも進出。「吉祥寺名店会館」というビルを建てるまでになった。武州鉄道の構想が思い浮かんだのは、この頃だったという。

だが、いくら事業が成功したとはいえ、鉄道の建設にかかる莫大な費用を一事業家の資本だけで賄えるものではない。しかし、滝嶋は人を懐柔するのに長けていたらしく、当時、埼玉銀行(現・埼玉りそな銀行の前身の1つ)頭取だった平沼弥太郎にたくみに取り入った。平沼は名栗村(現・飯能市の一部)村長、埼玉県議、参議院議員等を歴任した地元の名士であり、飯能銀行の重役に名を連ねていたときに、県内の他銀との合併により埼玉銀行が成立すると頭取に就任していた。

平沼は信仰心が厚く、当時、私財を投じて郷里の名栗村に「鳥居観音」と呼ばれる、山全体を境内とする壮大な寺院を建立している最中だった。そこへ滝嶋が現われ、50万円をポンと寄進し、「どんな立派な観音様を祭っても、お参りする人がいなければ『仏造って魂入れず』ではないですか。鉄道を敷きましょう」と話を持ちかけ、これに心を動かされた平沼は出資を約束した。もちろん、鉄道の敷設が郷里の発展につながるとも考えたのだろう。

埼玉県旧名栗村 鳥居観音

旧・名栗村の海抜500mの山中に立つ「鳥居観音」(筆者撮影)

いずれにせよ、埼玉銀行という資金的な裏付けができたことで、武州鉄道計画は実現性を帯びたのである。

ところが、鉄道事業にはずぶの素人だった滝嶋は、用地買収などの実務面は他人任せで、自らは鉄道免許取得のための政財界工作に奔走。埼玉銀行から融資された鉄道建設資金のうち数億円に上る金銭を政財界工作に流用するなど、その会社運営は極めてずさんだった。

このような武州鉄道の実態は、間もなく明るみに出ることとなる。1957年に秩父線(吾野―西武秩父間)の敷設免許を申請し、一部区間が競願関係にあった西武鉄道は、「山間部の多い計画路線を、50億円ほどの金で実現できるはずがない」(『戦後政治裁判史録3』田中二郎ほか)と、武州鉄道計画に対して反対姿勢を見せたほか、運輸省(当時)内にも、武州鉄道の免許に反対する声が強まっていった。

西武秩父線 芦ヶ久保駅

武州鉄道と競願となった西武秩父線の芦ヶ久保駅。西武秩父線は非常に険しいルートを行く路線だ(筆者撮影)

この時点で、埼玉銀行は武州鉄道関連事業に対して、すでに相当な金額を融資していたが、こうした批判の声に加え、同時期に大蔵省銀行局(当時)が埼玉銀行に対して行った検査で「武鉄は免許見通しなく、滝嶋関係融資分は多分に思惑的な点がある」との指摘を受けた。これに衝撃を受けた平沼は、取り巻きからの警告もあり、武州鉄道事業と絶縁する方向に舵を切ることにした。

免許交付の翌日に運輸大臣ら逮捕

だが、時すでに遅しであり、平沼が武州鉄道の発起人を正式に辞任し、事業からの「撤退」を完了したのは1960年4月。それまでの間に、滝嶋の政界工作は後戻りできないところまで進んでいた。財界有力者を介して、当時の岸内閣の運輸大臣・楢橋渡(ならはしわたる)に接近し、武州鉄道建設予定地の視察に連れ出すことに成功。その後、築地の料亭で複数回にわたり接待している。

そして、西武鉄道の「武鉄反対」運動が活発化すると、滝嶋の行動はさらにエスカレートする。1959年11月から翌年5月までの間に「政治献金」の名の下、5回にわたって総計2450万円の現金を楢橋に渡したのである。

だが、平沼という資金源を失った武州鉄道計画が空中分解するのは、もはや時間の問題であった。

秩父鉄道 御花畑駅

武州鉄道の終点駅(予定)だった御花畑駅に停車中の秩父鉄道の車両(筆者撮影)

この事件が興味深いのは、実はこの先だ。ここで話が終われば、滝嶋という一事業家の夢が破れたというだけで、世間を騒がせるような事態にはならなかっただろう。

楢橋渡

運輸大臣等を歴任し、「怪物」とも称された楢橋渡(出典:『激流に棹さして わが告白』楢橋渡著より引用)

ところが、奇妙なことに1961年7月11日、武州鉄道元発起人総代の滝嶋(当時、すでに同地位を辞任)に対して、敷設免許が正式に下りたのである。通常、鉄道免許の交付までには4年程度かかるとされていたが、申請から2年半というスピード交付だった。滝嶋の政界工作が功を奏したと見るべきであろう。

この免許交付は、その後の東京地検による武州鉄道関係者の一斉摘発に向けて上げられた狼煙であった。免許が下りた翌7月12日、土地買収に当たっていた武鉄関連不動産会社「白雲観光」の役員が摘発されたのを皮切りに、滝嶋、平沼、楢橋ら関係者18人が逮捕されたのである。

その後の裁判では、滝嶋に対する融資金の回収を巡る特別背任なども争われたが、本丸は「武州鉄道免許にからむ贈収賄」であった。政治とカネの問題である。

大臣へ渡ったのは「献金」か「賄賂」か

争点は、滝嶋から楢橋へ渡された金銭が、「政治献金」だったのか「賄賂」だったのかである。言い換えると、金銭を受け取った時期において、楢橋に武州鉄道免許交付に関する職務権限があったのかが争われた(収賄罪は公務員がその職務に関し、金品を収受することなどを禁じている)。

運輸大臣ならば免許を交付する権限があるのは当然だろうと思われるかもしれないが、弁護人は、運輸大臣と、運輸大臣からの諮問を受けて免許の可否等を審議する運輸審議会との関係性から次のように主張した。

「運輸審議会は運輸大臣の所掌事務から独立した行政機関であり(中略)独自の権限に基づき公正な決定をなすべきであって、運輸大臣といえども審議会を指揮監督できない。運輸大臣は諮問前はもとより、諮問後も答申があるまでは、免許の決定権を行使できる段階でなく、かりに五回にわたり金銭の授受が行われたにしても、その時期には楢橋には武鉄免許に関する職務権限がなかった」

この主張の論点は2つあり、まず、運輸審議会に対し、運輸大臣の職務権限が及ぶのかが問題となる。そこで運輸審議会における審議・答申までの流れを見ると、次のようになっている。

「運輸審議会は、本省(運輸省)から資料の提供を求めたり、係官からの聴取、さらには他の機関に調査を依頼したり、また必要と認めたときは公聴会、聴聞会を開いて審理し、審議会として免許の可否を決定。この運輸審議会の意見は答申として会長から大臣に報告され、大臣は、この答申を参酌し、かつ、これを尊重して正式に免許の可否を決め、申請に対し免許あるいは却下の決裁をする仕組みになっている」(『戦後政治裁判史録3』)

これを素直に読めば、運輸審議会における審議は運輸大臣の職権から独立して行われるとともに、公共性の極めて高い鉄道免許の可否が、恣意的な判断に左右されないよう、意思決定の多重性が確保されていると見ることもできる。

次に時系列的な観点から見ると、武州鉄道に免許が下りる1年前の1960年7月に、岸内閣は総辞職しており、後継の池田内閣では木暮武太夫(ぶだゆう)が運輸大臣に就任し、武州鉄道の免許は、この木暮大臣名義で下付されている。

仮に楢橋が金銭を受け取ったにしろ、運輸審議会の答申(1961年7月6日)前のことであり、その時点において、楢橋に武州鉄道の免許の可否を決定する職務権限はなかったと弁護人は主張したのである。しかし、東京地裁は次のように、この主張を退けた。

「運輸審議会は、運輸省に設置された諮問機関であり、運輸大臣の諮問に応じて意見を答申し(中略)これらの意見は決定権者である運輸大臣の参考意見にとどまり、何ら決定権者を拘束しない。(中略)運輸審議会委員七人のうち一人は運輸事務次官であり、原局の長も審議会に意見を述べたり、審議会の要求で資料を提出しなければならぬ規定もある。従って少なくとも大臣の職務権限は、大臣官房や原局の長を通じ右に掲げた範囲で審議会に及び、特定事案について運輸大臣の権限自体が運輸審議会の権限によって限定・変更されることはない。諮問前であろうと諮問が進行中であろうと、運輸大臣が当該事案について免許に関する職務権限を有しないと解することはできない」(運輸審議会の委員構成等は当時のもの)

つまり、楢橋には免許に関する職務権限があり、賄賂を受け取ったとされたのである。

一審で楢橋、滝嶋にいずれも懲役3年の実刑判決が言い渡され、控訴審(東京高裁)で楢橋に懲役2年執行猶予3年、滝嶋に懲役2年の有罪判決が確定した。なお、平沼らの特別背任等は無罪となった。

本事件に関しては、岸信介から弟の佐藤栄作(後に首相)の将来を託されていた党内実力者の楢橋が、池田首相の再選を阻む者として、池田陣営によって陥れられたのだとか、いろいろなことが言われたようだが、どう見ても楢橋の脇が甘かったとしか思えない。

武州鉄道、もし開業していたら?

こうして幕を閉じた武州鉄道事件であったが、仮に同鉄道が開業にこぎ着けていたならば、どうなっただろうか。参考になるのが、西武秩父線(1969年10月に開業)の収支である。2013年に西武ホールディングスが米投資会社「サーベラス」からTOB(敵対的な株式公開買い付け)を仕掛けられた際、「不採算路線」として同線などを廃止するよう求められたのは記憶に新しい。

旧・名栗村付近の山岳路線は収益性が低い割に維持費がかかることなどからすれば、武州鉄道という弱小資本が路線を維持するのには無理があるし、採算性を考えれば西武が買収したかも疑問である。

一方で、路線を吉祥寺から東青梅までに縮小して開業したならば、青梅線・西武国分寺線・中央線を結ぶバイパス線として、沿線開発や既設路線の混雑緩和の観点から成業した可能性はある(ただし、1968年に西武拝島線が玉川上水駅から拝島駅まで延伸・開業していることから競合関係になっただろう)。だが、そもそも武州鉄道は、埼玉銀行という資金源があればこそ成立する計画だったのであり、その点で最初から矛盾を抱えていたのである。

(森川 天喜 : 旅行・鉄道ジャーナリスト)

ジャンルで探す