若々しい人・老け込む人「休日の過ごし方」の違い

休日の過ごし方 散歩

日本人の「死亡年齢最頻値」は男性が88歳、女性で93歳。若々しくいるための秘訣とは?(写真:foly/PIXTA)
突然ですが、あなたは今疲れていませんか?
世界でも珍しい「疲労研究」の第一人者による書籍『休養学:あなたを疲れから救う』がこのほど上梓されました。
本書によると、現代人の疲れは「単に体を休める」だけでは50%程度しか回復せず、100%に戻すには、あえて自分に軽い負荷を与え、「活動→疲労→休養」というサイクルに「活力」を加えた「攻めの休養」をとることが肝心だとされています。
早朝のジム通いなど、日ごろから軽めの負荷を取り入れた生活をおくるジャーナリストの佐々木俊尚氏は本書をどう読んだのか。前編に引き続いてお届けします。

活力なき日本、誰がいちばん疲れている?

世界と比較して「出世欲の低い日本」と言われるようになっていますが、そこには、出世することに対するコスパの悪さがあると思います。

休養学: あなたを疲れから救う

管理職になっても大して給料が上がらない。残業時間がなくなるだけ、むしろ給料が減ったりもする。それでいて、面倒なマネジメントを押し付けられるのですから、みんな管理職にはなりたがりません。

かつての日本のように、出世によって得られる利点が乏しくなってきているわけです。逆にそれは、「平等ないい社会」と見ることもできます。出世することによって権力を得られる社会のほうがいいのかというと、そういうわけでもありませんから。

しかし、その「平等ないい社会」が、活力ある健全な方向に向かっていないのが残念に思います。多様性が広がり、誰もが生きやすい社会になってきたとは思うのですが、そのよさが社会であまり共有されていない感じがします。

若い女性がいちばん疲れているというデータがあるようですが、個人差もありますし、あらゆる年齢、あらゆる性別の人が疲れていることに間違いはありません。僕は、「いちばん疲れているのは誰か」を競争することには、あまり意味がないような気もします。

今の時代は、どちらがより弱者かを争う「かわいそう競争」が起きています。「シングルマザーはかわいそうだ。でも、『キモくて金のない中高年のおじさん』は、メディアにも無視されもっとかわいそうだ」という話になる。あまり健康的ではありませんよね。

かつては、元総理大臣の森喜朗のような「抑圧的な年配のおじさん」こそが強者のイメージでした。ところが、あのようなタイプの人は、実際にはもうほとんどいません。誰もが弱者であるという世界で、「自分こそが弱者だ」という争いが起きているのです。

しかし、自己憐憫に浸っていても、あまりいい人生にならないと僕は思います。強者になれとは言いませんが、せめて健全であってほしいですね。休養をとって体を健康に保つ、生活をきちっとする、仕事をしっかり作るというような、足元をしっかり築くことのほうが大切なのではないでしょうか。

休養のとり方が差を生む時代

60代になった今、若々しさの個人差がすごく激しくなっていくのを目の当たりにしています。

最近、「平均寿命」ではなく、「死亡年齢最頻値」という言葉が盛んに使われるようになりました。「平均寿命」は、今年0歳の子供が何歳まで生きるかという数値ですが、「死亡年齢最頻値」は、今年いちばんたくさん亡くなった人は何歳かという数値です。日本人は、男性88歳、女性93歳。

今年5月には、政府の経済財政諮問会議において、民間議員から「高齢者の定義を65歳から70歳へと5歳延ばすべきだ」という指摘もなされました。

これらの現象から、ものすごく長く働く時代がやってくるのだとわかります。自分が長く働きたいと思うかどうかではなく、社会として、否応なしに「働いてください」というふうになっていくわけです。

そうなると、いかに健康を維持するかが重要なテーマになるでしょう。だからこそ、うまく休養を取り、活力を取り戻しましょうということになる。

疲れてダラダラ寝ていると、それ以上は疲れないので、すごく低いレベルでの体力の維持はできます。でも、それ以上には上がっていかない。「病気じゃないからとりあえずいいか」という感覚で低空飛行していても、楽しくないんじゃないかと思いました。

そこで、バッと起き上がって活動できるという力は、年齢に関係なく必要になりますし、それができる人と、できない人とでは、生き方が変わってくるでしょう。

物理的な年齢よりも、日々いかにきちんと休養をとって、活力を作っているかどうかが物を言う。そこで個人差が広がっていく時代なのだと思います。

ジャーナリストは不健康な無頼派だった

「休養」が注目されているのは、この15年ほどで健康に対する意識が非常に高まってきたことと関連するのではないかと思います。

15年ほど前、日々の生活を聞かれて、朝6時半に起きてジムに行っていると答えたら、「えっ、ジャーナリストなのにジムに行くんですか?」と笑われたことがありました。

その頃は、ジャーナリストと言えば、遅くまで飲み屋で酔っ払って殴り合いしているというような無頼派のイメージがあったのでしょう。それが、「それじゃ体を壊すだけで、何もいいことはないよね」と変わってきた。これには、終身雇用による安定性がなくなってきた影響が大きいのではないかと考えています。

最近よく、昭和の時代とは何だったのかということを考えています。映画という切り口で見ると、昭和は、とにかく「脱出モノ」の映画が多いのです。

終身雇用のサラリーマンが多く、社会は安定しているが、組織のヒエラルキーが存在し、抑圧も強い時代でした。だからこそ「そんな社会からどう脱出するか」ということをテーマとした作品が増えた。歌謡曲にも「遠くへ行きたい」という歌詞がよくありました。

つまり、現状が安定しているからこそ、脱出できる。ヤクザ映画がはやったのもそこに理由があります。社会が安定しているからこそ、アウトローへの憧れが生まれていたわけです。ジャーナリストが無頼派と見られていたのもこの影響でしょう。

多様性が進む一方、不安を抱えて健全志向へ

時代が変わって、今は風通しがよくなり、多様性も進んで、抑圧がかなり薄まりました。一方で、社会そのものが不安定になり、誰もが、自分の居場所がはっきり定まらないという不安を抱える時代になってもいます。

そういった社会では、人々がアウトローに憧れなくなります。映画やアニメも「脱出モノ」ではなく、「仲間モノ」「つながり」といったテーマが増えました。

自分の足元がどうなっているのか、しっかり固めたいという所から、健康で健全な生活を維持していきたいという意識が生まれ、健康志向の高まりが始まったと考えられるのです。

20世紀的な身分が安定していた世界は、高度経済成長期の副産物だったと考えるならば、そんな世界はもう二度と来ないとも言えます。どんどん多様性が進む一方で、このポスト近代社会においては、足元の不安定さは永久になくならないでしょう。

そうなれば、やはり、ますます健康に気を使うようになるということになります。そういった意味でも、今後「休養学」は、ますます注目されるテーマになるでしょう。

(構成:泉美木蘭)

(佐々木 俊尚 : 作家・ジャーナリスト)

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