多忙な人が気づくべき「怠けてはいけない」のウソ

疲れて伏せる女性

やらなければいけないことがたくさんあるのに、身体が思うように動かないときがありませんか?(写真:TY / PIXTA)
オーバーワークの常態化、燃え尽き症候群・うつ病、スマホ疲れ・SNS疲れ、格差の拡大と競争社会の激化……。日常的に疲労を感じる人が増える中、アメリカの社会心理学者デヴォン・プライス氏は「そんなに働かなくていい」「むしろ怠惰であるほうがいい」と語ります。しかし多くの人は「怠ける」ことに後ろめたさを感じるのではないでしょうか。デヴォン・プライス氏の著書『「怠惰」なんて存在しない 終わりなき生産性競争から抜け出すための幸福論』から一部を抜粋し、お届けします。

「働き蜂」のように動き回った

生産性の高い人だ、と私は褒められてきた。

周りからは、いつも「働き蜂」みたいに動き回っている、勤勉なしっかり者に見えていただろう。けれど、その代償は大きかった。

仕事で業績を上げ、執筆活動や社会運動にも熱心に取り組み、周囲の期待に応えられるよう、いつもバランスを取ってきた。締切を破ったことはなかったし、行くと言ったイベントには必ず顔を出した。

就職活動中の友人がいれば応募書類の推敲を手伝い、人権侵害について議員に連絡する人には精神面のサポートをした。

そうやって「活動的で頼りになる人」という外面を保ってきたけれど、私の内面はボロボロだった。本を読む気力もないほど疲れ果て、刺激を避けて暗い部屋で独りで過ごした。頼みを断れず抱え込んだのは自分なのに、頼ってきた相手を恨んだりもした。

活動範囲を広げすぎてちぎれそうになっても、身体を引きずってタスクを次々と片付けていた。エネルギー不足で動けなくなって「怠惰」になる自分は許せなかったのだ。

私のような人は多い。

「上司の期待を裏切れない」といつも残業を引き受けて長時間労働をしている人。友達やパートナー、家族の相談相手やお世話係として24時間いつでも頼られている人。さまざまな社会問題に関心があっても時間が足りなくて、活動に満足に参加できず罪悪感を持っている人。

こういうタイプの人は、起きている時間すべてをアクティブな活動で埋めようとする。長時間労働のあとにスマートフォンのアプリでスペイン語学習をする、オンライン学習サイトでプログラミング習得を目指す、などだ。

こういう、私のようなタイプの人は、「価値ある人間として認めてほしいなら、やるべきだ」と社会に教え込まれたことを全部やろうとする。責任感をもって仕事を頑張り、社会問題に熱心に取り組み、友人を思いやり、絶えず学び続ける。将来が不安なのだ。

だから、先手を打って準備しておく。自力でコントロールできることは全部制御して、不安を軽減しようとする。そうして自分を追い込んで、頑張りすぎるのだ。

どれだけ頑張っても終わりがない日々

それでいつも疲れ果て、焦りを感じ、全然できていない自分に失望している。いくら業績を上げても、どれだけ頑張っても、もう十分できたと満足できず、片時も心は休まらない。私なんてまだ休んでいい立場じゃないと思い込んでいる。

燃え尽きかけたり、ストレスから体調を崩しそうになったり、何週も睡眠不足が続いても、自分で「もう無理だ」と諦めたら「怠惰」になってしまう。「怠惰」はいつだって悪いことだから避けなくては、と信じ続けている。

この世界観が、私たちの人生を蝕んでいく。

何年も、私はひどい生活パターンで生きてきた。朝から5〜6時間、休憩も取らずに働いて、片っ端から業務を処理していく。

この時間帯は、メールの返信やレポートの採点に猛烈に集中していて、軽食をつまむどころか、席を立って少し歩くのも、トイレに行くのも忘れていた。誰かの邪魔が入れば、イライラしながら相手を睨みつける。こうして5時間ほど過ぎた頃には、空腹とイライラと精神的消耗でもう動けない。

こんなふうに超生産的でいられるのはいい気分だった。前日の夜に考えて不安になっていた「やることリスト」のタスクを全部片付けられる自分が好きだった。そう思うと短距離走のように全力で凄まじい量の業務を処理できた。

怠惰な時間を過ごしたあとの「罪悪感」

だけど、そんな働き方をしていると、その後、使い物にならなくなる。午後は生産性ゼロに等しい状態で、SNSを何時間もただ眺めているだけだった。終業後はベッドに倒れ込む。暗い部屋でポテトチップスを食べながらネット動画を見る以外のエネルギーは残っていない。

こうして数時間、「充電」をすると今度は、時間を有意義に使えなかった罪悪感が押し寄せてくる。

「友達と出かければよかったのに」「なんで執筆しなかったんだろう」「どうせなら健康的で素敵な晩ごはんを作ればよかった」ー。

そうして、翌日にやるべきことを考えてストレスに襲われる。そしてまた翌朝になると、罪悪感から働きすぎて疲弊、というサイクルが始まるわけだ。

これが身体によくないのは当時もわかっていたけれど、抜け出せずにいた。たとえ疲労感がひどくても、大量のタスクを短時間で完了する快感は手放せなかった。私は「やることリスト」に完了のチェックを入れるために生きているようだった。

相手の期待より早くメールを返信して、「すごい! 仕事が早いね」と言ってもらうのが快感だった。頑張り屋で仕事のできる人だと思われたくて、自分がうまく回せる以上の仕事を引き受けた。

そうやって、次々にタスクを自分で抱え込んでいれば、破綻するのは時間の問題だ。体調を崩すかメンタルをやられてしまう。

「怠惰のウソ」に気づいた

実際、私は過労で体調を崩した。それでも不調を隠して働き続けた。過労のせいで心身が完全に壊れるまで、方向転換の仕方がわからなかったのだ。体調は元に戻らず、医師に診てもらっても原因は特定できない。

どんな検査も治療も役に立たず、医師にも治せなかった謎の病気に苦しめられた末、ようやく治療法が見つかった。休養だ。何もしない、純粋な休養が私には必要だったのだ。

それから2カ月、徹底して非生産的に過ごした。そのうち徐々に、心身にエネルギーが戻ってきた。

改めて見渡せば燃え尽き、体調不良、仕事を抱えすぎた人が周囲にたくさんいる。それでようやく気づいた。私が苦しんでいたのは、社会全体に蔓延した流行病だったのだ。これを私は「怠惰のウソ」と呼んでいる。

「怠惰のウソ」は深く文化に根ざした価値体系で、次のことを私たちに信じ込ませている。

●表向きはどうあれ、本質的に自分は怠惰で無価値だ。
●怠惰な自分を克服するために、いつも一生懸命頑張らなくてはいけない。
●自分の価値は生産性で決まる。
●仕事は人生の中心だ。
●途中でやめてしまうこと、頑張らないことは、不道徳だ。

「自分は頑張りが足りていない」と罪悪感が湧くのは「怠惰のウソ」が原因だ。身体を壊すまで働きすぎるのも、「怠惰のウソ」に突き動かされているからだ。

身の回りの「怠惰のウソ」に気づき始めた私は、研究者としてのスキルを活かして、「怠惰の歴史」を掘り下げ、最新の心理学研究を渉猟して生産性について調べた。

その結果に、私は安堵しながら、落胆してもいた。生産性や燃え尽き症候群、メンタルヘルスに関する研究によると、平均的な労働時間は長すぎるらしい。

全日制大学の標準的なカリキュラムや、社会運動の週当たりの分担など、一般に正常とされているタスク量は多すぎて、大半の人には継続不可能だという。

しかも、「怠惰」だと見なされている行為は、実際には、自己防衛本能の強い表れなのだという。

やる気が出ない、目標が定まらない、といった「怠惰」な状態になるのは、心や身体が安静や静謐(せいひつ)を求めて悲鳴を上げているからだ。疲労がたまっているときには、心身の訴えを聞き、その声を尊重して、ようやく回復へと向かえる。

心理療法士や、企業でのコーチングの専門家によると、仕事や私生活で「ここまで」という一線を引く方法は存在する。「怠惰」でいる権利を主張して、生活の中に、遊びやリラックス、回復のための「余地」を持つことは可能なのだ。

さらに、「やることリスト」の完了チェックの数で自己評価をしないようになれば、不安もなくなり心が穏やかになれるという。

「怠惰」なんて本当は存在しない

私たちは怠惰であることを恐れるよう教えられてきたけれど、そんな「怠惰」はそもそも存在しない。道徳的に退廃した怠け心が内在するわけでもないし、その邪悪な力のせいで人が理由もなしに非生産的になるわけでもない。

限界を訴えたり休みを求めたりするのは、何も悪くない。意欲の低下や疲労感は自尊心を削る脅威ではない。

「怠惰」なんて存在しない 終わりなき生産性競争から抜け出すための幸福論

むしろ、「怠惰」だと揉み消されるような感情こそが、人間としてとても重要な感覚であり、長期的に見れば、私たちが豊かに生きるために必須なのだ。

人がエネルギー切れやモチベーション不足になるのは、ちゃんと理由がある。人が疲れたり燃え尽きたりしているのは、本人の内面にのさばる、恥ずべき「怠惰」に負けているからではない。

むしろ、当たり前の要求をしただけでも非難されるような、仕事中毒な価値観が蔓延しているせいで、生きづらくなっているのが問題だ。

身体の上げる非常ベルの音を無視してまで、自分を追い詰める必要はない。休むことを拒まなくていい。怠惰を恐れる必要はない。

そもそも「怠惰」なんて存在しないのだから。

( デヴォン・プライス : 社会心理学者・作家)

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