賃上げに喜ぶ日本人を襲いかねない「今後の展開」

賃上げ

春闘によって高い賃上げが実現した。これが将来も持続するかどうか、そしてこれが国民生活を本当に豊かにするかどうかに、関心が集まっている(写真:years/PIXTA)
本来、賃上げは生産性向上によって実現すべきものだが、日本では販売価格に転嫁されて消費者が負担する賃上げが始まろうとしている。これは、スパイラル的なスタグフレーションを招くおそれがある。日本はいま、重大な岐路に立っている。昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕するーー。野口悠紀雄氏による連載第122回。

生産性向上による賃上げでなければならない

春闘によって高い賃上げが実現した。これが将来も持続するかどうか、そしてこれが国民生活を本当に豊かにするかどうかに、関心が集まっている。

この問題のカギは、賃上げが生産性の向上によって行われるか否かである。生産性向上によって賃上げが実現するのであれば、国民の生活は豊かになる。しかし、賃上げを販売価格に転嫁しているのであれば、実質賃金が上昇せず、経済は物価と賃金の悪循環に陥る。

ここで、「生産性」という言葉について注意が必要だ。本来であれば、資本蓄積や技術進歩が行われた結果として付加価値が増大する場合に、「生産性が上昇する」と言うべきだ。しかし、統計上は、1人当たりの付加価値が上昇すれば、その原因によらず、「生産性が上昇した」とされる場合が多い。価格転嫁によって売り上げ額が増加する場合も、統計上は、付加価値が増大することになるので、生産性が上昇したことになってしまう。

本稿では、資本装備率の上昇や技術進歩によって実現する賃上げだけを、「生産性上昇によって実現する賃上げ」と呼ぶことにする。

この問題を考えるためには、生産性の上昇を伴う賃上げか否かを判別するための指標が必要だ。

この目的のために、「単位労働コスト(ULC)」を使うことができる。これは、名目雇用者報酬を実質GDPで割ったものだ。すなわち、

ULC =名目雇用者報酬/実質GDP

これがどのような意味を持つかを、以下に説明しよう。まず、この指標は、次のように変形できる。

ULC =(名目賃金÷労働者数)/(実質GDP÷労働者数)

この式の分母である「実質GDP÷労働者数」は、労働生産性である。したがって、

ULC=(1人当たり賃金)/労働生産性

――となる。

1人当たりの賃金の上昇が労働生産性の上昇に従って行われる場合には、ULCは不変にとどまる。それに対して、労働生産性の向上を上回る値上げが行われれば、ULCは上昇する。このようにして、賃金の上昇が生産性の上昇を伴うものであるか否かを判別することができる。

企業の方針によって賃金を上げることもできる

技術進歩や資本装備率の上昇がなくても、賃金を上げることができる。その第1は、企業が利益を圧縮させて賃上げを行うことだ。第2は、企業が賃上げ分を売り上げ価格に転嫁して賃上げを行うことである。

GDPから資本減耗引き当てを除いた額は、労働や資本などの生産要素に報酬として支払われるので、次の関係が成立する。

名目GDP=雇用者報酬+企業所得+資本減耗引き当て

両辺を実質GDPで割ると、左辺はGDPデフレーターの100分の1になる。右辺の第1項は、上で定義したULCだ。第2項は、企業所得を実質GDPで除したものである。これを「単位利益」(UP)と呼ぶ。

右辺にあるULCが上昇すれば、他の条件が変わらなければ、左辺のGDPデフレーターが上昇する。ただしGDPデフレーターはこの他の要因によっても変動するので、GDPの動向だけからULCの動向を判別することはできない。

結局、次のように3種類の賃上げがあることになる。

(1)生産性向上型賃上げ:資本装備率上昇や技術進歩、新しいビジネスモデルの導入などにより労働生産性が上昇し、これによって可能になる賃上げ。

(2)企業利益負担型賃上げ:生産性の上昇はないが、企業が利益を圧縮することによって行われる賃上げ。

(3)価格転嫁型賃上げ:販売価格を引き上げることによって、労働生産性上昇も企業の利益縮小もなしに、行う賃上げ。

以上をまとめると、図表1のようになる。

「自分で負担する賃上げ」になっている

最近の状況を見ると、実質GDPは、ほとんど不変、ないしマイナス成長である。したがって、このような状況下で名目賃金が上昇すれば、ULCは必ず上昇するので、生産性向上型ではない賃金上昇になる。

企業が利益を減少させなければ、賃上げは販売価格に転嫁され、最終的には消費者物価に転嫁される。結果的に、名目賃金は上がっても実質賃金は上昇せず、実質消費は増大しない。

労働者は賃金の受け取り者であるとともに消費者でもあるから、消費者物価に転嫁することによって行われる賃上げは、「自分で負担する賃上げ」ということになる。

したがって、「自分で負担しない賃上げ」であるためには、価格転嫁ではない方法で賃上げが行われる必要がある。企業が利益を圧縮すればそれが可能だが、このような賃上げは継続することができないだろう。

国民経済計算のデータを用いてULCとUPを計算すると、図表2の通りだ。

ここには、ULCとして2つのデータを示してある。1つは、GDP統計による名目雇用者報酬を実質GDPで割ったものだ。第2は、雇用者報酬のうち賃金・報酬をGDPで割ったものだ。どちらの指標で見ても、2015年頃からゆるやかに上昇していたが、最近では、ほぼ一定だ。したがって、最近の賃上げは、ほぼ生産性上昇に添ったものと言える。

UPは、2015年以降ゆるやかに低下していたが、最近では、若干回復した。

コストプッシュ型のスタグフレーションに陥る危険

2024年の春闘で高い賃上げ率が実現したことから、日本でもやっと賃金が上昇し始めたと歓迎する意見が多い。しかし、すでに述べたように、どんな賃上げでも望ましいというわけではない。重要なのは、賃上げが生産性の上昇によって実現されるかどうかだ。健全な賃金上昇のためには、賃金上昇と実質GDPの増加が同時に進行するようなものでなければならない。

2022年以降の輸入物価の上昇は極めて急激なものであったために、これを価格に転嫁できるかどうかに、当初は疑問が持たれた。しかし、実際にはそれが実現した。

また、2023年には輸入価格が下落して企業の原価が下落したにもかかわらず、企業はこれを売り上げ価格の下落に還元せず、利益を増やした。ヨーロッパ諸国では、物価高騰によって企業利益が増加していることから「強欲インフレ」だとする批判がある。日本の場合の企業利益増加も、「強欲型」と言ってもいいものだ。

企業はこの実績を見て、賃金上昇も価格に転嫁できると考えたのではないだろうか?

日本銀行はこのような過程を「賃金と物価の好循環」と呼んで、望ましいものと捉えている。

また、政府も、中小零細企業が価格転嫁によって賃上げを行うことを進めようとしている。これらは、賃金が上がるという意味では望ましい現象なのだが、実際には消費者が負担する賃上げであり、その結果、実質GDPの成長率が落ち、スタンクレレーションに陥るという大きな問題を含んでいる。

これを放置すれば、賃金と物価の悪循環によってコストプッシュのインフレが加速し、スタグフレーションに陥る危険がある。日本はいま、重大な岐路に立っていると考えざるをえない。

(野口 悠紀雄 : 一橋大学名誉教授)

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