「DV・売春・クスリ」彼女がどん底から見た"光と影"

あんのこと 河合優実

香川杏、20歳。シャブ中でウリの常習犯。希望も知らず、かといって絶望も知らず。ただ一家の暮らしを支えるためだけに無為な日々を過ごしていた。そんな彼女がひとりの刑事との出会いによって更生の道を歩み出すが、そこにやってきたコロナ禍の猛威が彼女の心を少しずつむしばんでいった――。

『22年目の告白 ―私が殺人犯です―』『映画 ネメシス 黄金螺旋の謎』などで知られる気鋭の映像作家・入江悠監督が、2020年に実際に起こった事件をモチーフに描き出した衝撃作『あんのこと』が6月7日より新宿武蔵野館、丸の内TOEI、池袋シネマ・ロサほかにて全国公開となる。

「不適切にも」でも話題の河合優実が主演

主人公の杏を演じるのはテレビドラマ「不適切にもほどがある!」をはじめとした話題作に次々と出演する河合優実。「この役と、主人公のモデルとなった女性を自分が守る」思いで、この役に真っ正面から向き合った。

本作の主人公である杏は、狭い団地の中に、ホステスをしている母(河井青葉)と、祖母(広岡由里子)と3人で暮らしていた。

部屋の中はまるでゴミ屋敷のようになっていたが、母親はそんなことはお構いなしに男を連れ込んでいる。

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幼い頃からすさんだ暮らしをしていた杏だが、そんな彼女に愛情を注いでくれた祖母のために介護の仕事をしたいと思うようになる。©2023『あんのこと』

そんな母親からの暴力は、杏が子どもの頃から日常だった。一緒に住む祖母は足が不自由で、杏の母親の暴力を目の当たりにしてもなすすべもなく、ただぼう然としているだけだった。

小4で不登校になったため、漢字はほとんどわからない。母親に強要されて身体をはじめて売ったのは12歳のことだった。

だが身体を売って稼いだなけなしのお金も、母親が根こそぎ持っていってしまう。薬物中毒で腕には無数のリストカットの跡がある。

本作の物語は、身体を売った男がホテルの中でオーバードーズで失神してしまい、警察に逮捕されてしまった杏が、刑事の取り調べを受けるところから始まる。

取り調べを担当したのはベテラン刑事の多々羅(佐藤二朗)。最初は「令状を持ってこい!」と反抗的な態度をとっていた杏だったが、そんな彼女に対して多々羅は「ヨガがいいんだよ、シャブを抜くには」と言いながら、いきなりヨガのポーズを披露するような風変わりな大人だった。

「とりあえず売春はやめろ。薬を抜くためにはまず自分を大切にするところからだ。夢中になれることを探せ」と諭す多々羅は、自身が運営する「サルベージ赤羽」という薬物更生者の自助グループに杏を誘う。

社会に出ようとしていた杏に対して、雇用主は低賃金で給料をごまかそうとしたり、生活保護の担当者も杏の話に聞く耳を持とうとはしなかったりもしたが、多々羅はそんな冷たい大人たちに対しても怒りの声をあげて守ろうとするなど、ぶっきらぼうながらも親身になってくれた。

新しい人生を歩み始めたものの…

これまでに出会ったことがないような大人であり、これまで大人を信じることのなかった杏も次第に心を開くようになる。

あんのこと 河合優実

多々羅(佐藤二朗)は父親のような存在だった。そして記者の桐野(稲垣吾郎)からは勉強を教わるなど、人生をふたたび歩み出そうとする杏にとって彼らは光となっていたが…。©2023『あんのこと』

そんな杏に向かって「多々羅さんって面白いよね」と話しかけてきたのは、3年前から多々羅の取材を行っているという週刊誌の記者・桐野(稲垣吾郎)という男だった。

多々羅と桐野、ふたりの大人たちに見守られながら、少しずつ居場所を見つけていく杏。クスリを絶ち、つたない文字で日記を書き始め、新しい職場で働き始めた。さらには母親の元を去りDVシェルターに身を寄せて、漢字の勉強も始めた。

新しい人生を歩み始めた杏の表情は次第に生気を帯びるようになった。だが2020年、未知のウィルスがもたらす感染症が世界を一変させた。何かをつかみかけたように見えた杏の人生の歯車も少しずつ狂い始めた――。

本作の企画が始動したのは2020年初夏。新型コロナウィルスが猛威をふるい、一瞬にして大切なものを奪われることを恐れた人々の間で寛容性が失われていった時期だった。

イライラは募り、社会全体が息苦しさを感じていた。そんなとき、俳優・監督のマネージメント業を行う鈍牛倶楽部を運営する傍ら、映画プロデューサーとして『PLAN75』や『逃げきれた夢』など数多くの映画を手掛ける國實瑞惠プロデューサーは1本の新聞記事に目を奪われる。

そこには、壮絶な生い立ちでありながらも、希望をもって人生をやり直そうとしていた若い女性の人生と、その行方が記されていた。

その記事に衝撃を受けた國實プロデューサーは「コロナ禍で社会が分断され、多くの人たちが苦しんでいる。システムのほころびが次々とあらわになり、弱い立場の人ほどそのしわ寄せをくっている」という憤りとともに、「彼女の人生を残さなくては」と強い使命感を抱いたという。

そんな國實プロデューサーの思いを具現化するべく声をかけられたのは、『ビジランテ』などで組んだことのある入江監督だった。『22年目の告白―私が殺人犯です―』『AI崩壊』といった大作から、『シュシュシュの娘』といった自主制作まで、作家性とエンターテインメント性の絶妙なバランスからもたらされる作品を数多く発表してきた気鋭の映像作家である。

「かわいそうな子」として描かないようにする

入江監督自身も「2020年から2021年にかけて社会を覆っていた“あの空気”を忘れないように記録しておきたい」と、その思いは一緒だった。そこでモデルとなった女性について入念なリサーチをはじめ、彼女の人生にとことん向き合いながら、何度も何度も書き直しながら脚本を紡ぎ出した。

そこで決めたことは「この子をかわいそうな存在として描くのはやめよう」ということ。たとえ壮絶な人生を送っていたとしても、彼女にだって楽しく豊かな時間があったに違いない。だったら彼女の人生と併走し、その体温を身近に感じようとすることが必要なのではないか。

そしてそれは主演の杏を演じた河合優実とも共有していたことだった。実際の事件をもとにした作品ではあるが、実在する人たちに失礼のないように描き出すことを第一とし、キャスト・スタッフともに悩みながら、終始誠意をもって、覚悟をもって、映画づくりに向き合った。

「河合優実さんという俳優の肉体を借りて、モデルとなった女性が向き合っていた世界を、皆で一緒に再発見していきたかった」という入江監督とともに本作に向き合った河合。

彼女自身、「この役と、主人公のモデルとなった女性を自分が守る。絶対に守らなきゃと、まず心に決めました」と語り、「彼女の人生を生き返す」という言葉を頼りに、一歩ずつ、一歩ずつ、杏の感情を探っていった。

登場人物をリスペクトして寄り添う

撮影は可能な限りストーリーに沿って進められ、またスタッフにも、カンヌ映画祭でカメラドール特別表彰を受けた『PLAN75』のスタッフが多数参加。ドキュメンタリータッチで映し出される画面や、わずかな光の変化などから、杏という女性のわずかな感情の揺れを繊細にすくい取り、登場人物の心情に寄り添っている。

「杏の尊厳を全力で守る」というつくり手たちの誠実な思いに貫かれた本作。杏の激しい傷に痛みを感じながらも、それでもなんとかその傷口をそっと包み込もうとするような、そんな優しさが胸に迫る。

(壬生 智裕 : 映画ライター)

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