なぜ日本の賃金は上がらず、諸外国の賃金は上がっているのか? 背景に、定期昇給ありの日本と、ジョブ型社会の諸外国の違い
〈〈最低賃金が国政の重要課題化〉リーマンショックや東日本大震災、コロナ後も大幅引き上げされたなかで令和の賃上げは…〉から続く
なぜこの30年間、日本の賃金は上がらず、諸外国の賃金は着実に上がっているのか。日本の大きな政策課題となっている「賃金」の決め方・上げ方・支え方の3つの側面から基礎的知識を徹底解説した『賃金とは何か 職務給の蹉跌と所属給の呪縛』(朝日新書)より一部抜粋・再構成してお届けする。
なぜ日本の賃金は上がらないのか
ここ数年来、日本の賃金が全然上がらないということが単なる労働問題を超えて、大きな政治課題として議論されるようになってきました。まずは、日本の賃金はどれくらい上がっていないのかをデータで見ておきましょう。『令和4年版労働経済白書』に載っているグラフですが、読者もどこかで目にしたことがあると思います。
これを見ると、確かに他の先進諸国が多かれ少なかれ着実に賃金が上がっているのに、日本だけはほとんど上がらず低迷していることが一目瞭然です。
ところが一方、この三〇年間、皆さんの賃金は本当にこんな風に低迷してきているでしょうか。そういう人もいるでしょうが、本書の読者層の大部分を占めると思われる一般サラリーマンの多くは、必ずしもそうではなかったはずです。三〇年前の賃金と今の賃金がこのグラフのようにほとんど変わらないという人は少数派で、多くの人は「いやこのグラフの諸外国並みに上がってきているよ」と答えるのではないでしょうか。
実際、この三〇年間の春闘結果は、政府の発表でも日経連/経団連の発表でも連合の発表でも、ほぼ毎年二%程度ずつ賃金が上がってきていることになっています。毎年二%ずつ賃金が上がると、一〇年後、二〇年後、三〇年後にはどうなるでしょうか。ごく簡単な指数計算ですので、手元のスマホの計算機でもやってみてください。(1.02)10=1.22、(1.02)20=1.49、(1.02)30=1.81。一〇年で二割増し、二〇年で五割増し、三〇年で八割増し。このグラフのイタリア程度にはなっているはずです。ところが現実にはそうなっていないのです。
上げなくても上がるから上げないので上がらない賃金
そう、その毎年二%の賃金引上げというのは「定期昇給込み」の数字だからです。第Ⅱ部で見たように、この三〇年間というのは、賃金の上げ方という観点からすれば、「ベアゼロと定昇堅持の時代」でした。一人ひとりの労働者(正社員)からすれば、ベースアップはなくても毎年自分の賃金は上がっていくのですから、まあこれくらいで仕方がないな、と思えたのかも知れません。
でも、その定期昇給というのは、労働者個人にとっては確かに自分の賃金額の引上げではあるのですが、それを全部足し上げたら、労働者全員の賃金は全然上がっていないのです。まさに七〇年前の一九五四年に関東経営者協会が述べたように、「個々の労働者はエスカレーターの各段階、即ち基準線の一定の所に位置し、年々職務遂行能力の上昇によって、段階を昇って行くが、最上段の労働者が企業外へ離職して行き、新たにその代りに最下段に新しい労働者が入り、エスカレーター全体いわば人件費総額は内転して常に一定である」のです。
労働組合の激しいベースアップ攻勢に苦しんでいた当時の経営者側が、何とかしようとひねり出したこの絶妙のアイディアは、しかしながらそれから四〇年間実現することはありませんでした。労働組合側は当然の権利としての定期昇給に加えて毎年高率のベースアップを要求し、実現させてきたからです。
ベースアップとは、内転するエスカレーター自体をクレーン車でもってぐいっと上に引き上げるものです。これにより、日本の労働者の賃金は個人的に定期昇給するだけではなく、それ以上に毎年ベースアップにより全体として上昇していき、それらを全部足し上げたマクロ経済的な真水の賃上げ部分として、日本人の賃金水準自体を右肩上がりに引き上げてきたのです。
ところが一九九〇年代以降、「ベアゼロと定昇堅持の時代」に突入すると、このエスカレーターは空間上の同じ位置でただぐるぐると回るだけになってしまいました。エスカレーターに乗っている個々の労働者(正社員)の目には、自分の賃金が毎年上がっているように見えても、全体では全然上がっていないという、手品の仕掛けはまさにここにありました。
この事態をいささか風刺的に表現してみるとするならば、「上げなくても上がるから上げないので上がらない賃金」ということになるのではないでしょうか。
なぜ諸外国は着実に賃金を上げたのか
「上げなくても」:ベースアップという形で無理やりにでも賃金総額を引き上げるということをしなくても、「上がるから」:定期昇給という形で毎年正社員一人ひとりの賃金は上がっていくものだから、「上げないので」:わざわざ苦労してベースアップして賃金を引き上げるということをしなくなってしまったので、「上がらない」:結果として日本人全体の賃金水準は全然上がらないままになってしまった、というわけです。
逆に、日本以外の諸国がなぜこの三〇年間着実に賃金が上がってきたかといえば、無理やりにでも賃金を引き上げてきたからです。序章で述べたように、ジョブ型社会では賃金は職務にくっついています。人にくっついてはいません。従って、職務を変えない限り、原則として賃金は上がりません。日本のような定期昇給という仕組みはないのです。
ほうっておいても賃金が上がる日本とは対照的に、ほうっておいたらいつまで経っても賃金は上がらないのがジョブ型社会です。そこで、職務に貼りつけられた値札をみんなで一斉に書き換える運動をせざるを得なくなるのです。それがジョブ型社会の団体交渉であり、その結果の改定価格表が労働協約ということになります。
この事態をやはりいささか風刺的に表現してみると、「上げなければ上がらないから上げるので上がる賃金」ということになりましょう。
「上げなければ」:団体交渉による値札の書き換えをしなければ、
「上がらないから」:職務に貼りつけられた値札の額はいつまで経っても上がらないから、「上げるので」:みんなで団結して団体交渉をして無理やりにでも値札を書き換えるので、「上がる」:結果として一国全体の賃金水準が上がっていった、
というわけです。
「上げる」という他動詞と「上がる」という自動詞の間には暗くて深い川が流れているようです。
図/書籍『賃金とは何か 職務給の蹉跌と所属給の呪縛』より
写真/Shutterstock
11/25 07:00
集英社オンライン