転生したら「東京モノレール」だった件

自己紹介

東京モノレール(画像:写真AC)

東京モノレール(画像:写真AC)

 吾輩は東京モノレールである。名前はあるといえばあるし、ないといえばない。世間一般的に、東京モノレールと呼ばれている。ある朝、なにか気がかりな夢から眼をさますと、吾輩が寝床の中で東京モノレールに変わっているのに気づいた。

 元は人間だったが、気づけば羽田への足として、あるいは沿線の足として日々走り続けている。今回は吾輩の視点から、東京モノレールとしての自分を評価していこうと思う。

 これは新たな車両評論のスタイルである。“マジガチ”のコメントはくれぐれもお控えください。

※ ※ ※

 吾輩は、モノレール浜松町駅と羽田空港第2ターミナル駅を結ぶ17.8kmの路線を、空港快速の時は18分、普通でも24分で駆け抜けている。

 こうして所要時間を見ると意外と速く、ライバルである京急のエアポート快特の品川から空港までの14分と引けをとらない。しかも、平日の朝のラッシュ時には4分間隔、昼間と夕方のラッシュ時は5分間隔で走っており、速度・フリークエンシーともに日本一のモノレールだ。

 ちなみに誕生日は1964(昭和39)年9月17日で、2024年で

「60歳」

を迎えた。人間でいえば還暦であり、赤いちゃんちゃんこを着せられることはなかったものの、開業時の塗色にラッピングしてもらうなどさまざまなイベントが開催されて、盛大に祝ってもらったのはうれしいかぎりだ。

自慢1「モノレールであること」

跨座式の多摩モノレール(画像:写真AC)

跨座式の多摩モノレール(画像:写真AC)

 吾輩の自慢は、何といってもモノレールであることだ。世界的に見ても、吾輩たちのモノレール族は、

・鉄道族
・路面電車族

などと比べると非常に少ない。ズバリ貴重なのだ。

 その昔は、長短さまざまなモノレールが走っていたが、今では吾輩と、

・舞浜
・湘南
・千葉
・多摩
・大阪
・北九州
・沖縄

と両手で足りる。モノレール族には、

・台座の上を走る「跨座(こざ)式」(吾輩)
・湘南や千葉のモノレールのようにぶら下がって走る「懸垂式」

がある。跨座式は、

・アルヴェーグ式(吾輩)
・日本跨座式
・ロッキード式

などに細分化される。余談であるが、ロッキード式はその昔向ヶ丘遊園に向かう小田急の路線で使用されていたが、ウルトラ戦隊ものに出てきそうな色使いとデザインにひそかにあこがれていたものだ。

 モノレール族のメリットは、高架化により

「占有する敷地面積が少ない」

ことだ。市街地化していても用地面積が少なく導入しやすい利点がある。

 また、鉄道族と比較して線形の自由度が高く、高低差や高い視点での眺望はなかなかのものだ。吾輩の東京モノレールは、ビル群を抜けたと思うと、首都高とランデブー、海にもぐるようなトンネル、倉庫宮とあけっぴろげな景色など、20分前後の旅ながら多彩な変化を楽しめる。

自慢2「羽田空港と歩んできた歴史」

路線図(画像:東京モノレール)

路線図(画像:東京モノレール)

 もちろん吾輩は、羽田空港とともに歩み、

「羽田空港へのアクセスといえば東京モノレール」

という時代を築いてきた。しつこいようであるが吾輩の誕生日は1964年9月17日、東海道新幹線開業が1964年10月1日、東京オリンピックは1964年10月10日だ。つまり、東京オリンピック開催にあわせて、吾輩は突貫工事で造られた。

 当時は成田空港がなく、東京のいや日本の“空の玄関”といえば羽田空港であり、各国の要人が吾輩を利用し、国際的には東海道新幹線より脚光を浴びたといってもいい。

 開業当時は、羽田駅、今の天空橋駅までであったが、羽田空港の拡張とともに羽田空港第2ターミナルまで足を伸ばすこととなる。また、開業時は浜松町と羽田をノンストップで結んでいたが中間駅も設けられた。

 1965(昭和40)年の大井競馬場前駅を皮切りに、

・羽田整備場駅(現在の整備場駅)
・新平和島駅(現在の流通センター駅)
・昭和島駅
・天王洲アイル駅

が開業し、今では沿線エリアの足としての役割も担っている。1日あたりの乗降人数(2023年)では、天王洲アイル~昭和島間が約5.4万人、整備場~羽田空港第2ターミナル間が約7.1万人と、

「中間駅の利用者が多い」

のも自慢といっていいかもしれない。

自慢3「ゴムタイヤによる静粛性と車両進化」

昭和島駅(画像:写真AC)

昭和島駅(画像:写真AC)

 初めて吾輩に乗った人がまず驚くのは、やはり

「静粛性」

だろう。鉄道族とは違い、ゴムタイヤで走行しているのだ。ゴムタイヤで走行する

「新交通システム族」

が増えてきた今ではあまり珍しくもないが、吾輩が生まれた当時としては画期的だった。

 祖先を振り返ると、

・100形グループ(200形・300形・350形)
・500形
・600形グループ(700形・800形)
・1000形
・2000形

と数字が増えてきて、ついに6代目の吾輩で10000形という大台を突破した。

 偉大な始祖の100形は日本初の公共交通のモノレールとして誕生し、1982(昭和57)年登場の700形で冷房導入、1997(平成9)年登場の2000形でVVVF化と時代とともに車両も進化してきた。

 ちなみに山手線は、1964年は初代新性能電車の101系がバリバリに活躍していて、それから103系、205系、E231系、E235系とバトンタッチしている。吾輩一族寿命が短いのは、

・増大する需要への対応
・海岸部を走行するため機器の劣化が早いこと

に起因している。

ますます影が薄くなる世界線しかない?

東京モノレール(画像:写真AC)

東京モノレール(画像:写真AC)

「羽田空港へのアクセスといえば東京モノレール」

だったが、京急空港線というライバルの登場で、栄枯盛衰というか、諸行無常というか、状況が一変したといっていい。海老取川を超えられなかった京急線が、1993(平成5)年4月についに羽田空港まで足を伸ばして、今では羽田空港第1・第2旅客ターミナルビル駅まで来ているのだ。正直にいうと、京急空港線が羽田空港ターミナルに乗り入れてからは若干影が薄くなった。

 1日あたりの乗降人数を比較すると、吾輩の羽田空港第3、第1、第2ターミナルの合計が約5.4万人(2023年度)、かたや京急空港線は

「約10.6万人」(2022年度)

だ。数字だけ見るとダブルスコアであり、残念ながら負けを認めざるをえない。京急空港線は、横浜方面や他社線につながっていることや、山手線と品川駅でつながっているのが大きい。浜松町接続では、

「浜松町ってどこ?」

という感じで、品川乗り換えに対してインパクトにかけている。

 さらに追い打ちをかけたのが、羽田空港アクセス線(仮称)の工事着手だ。今の親会社であるJR東日本が手がけ、2031年度の開業を目指しているという。そのあかつきには、吾輩の羽田空港へのアクセスという使命は終わるといっていい。

 将来は、沿線の皆さまの足として、あるいは臨海部にある

「歴史的かつマニアックな乗り物」

としてほそぼそと頑張る世界線しか残されていない。とはいえ、その頃には70歳も近くなることから、大量輸送という役目は鉄道族に譲って余生を存分に楽しもうではないか。

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