文学散歩の魅力とは何か? 今でも読み継がれる岡山出身「内田百閒」の足跡を辿る
内田百閒の魅力
内田百閒(うちだひゃっけん、1889~1971年)という作家がいた。近代文学があまり読まれなくなっているなかで、太宰治などと同じく読み継がれている珍しい作家だ。
夏目漱石の弟子であり、芥川龍之介とも深い親交があった。芥川は百閒の『冥途』(1922年)がもっと評価されるべきだといい、三島由紀夫は
「現代随一の文章家」
と評したこともある。
百閒の作品は一般的に随筆や紀行文がよく読まれているが、小説にも独特の世界観がある。特に『冥途』では、夢のなかの世界の再現ともいえる不可思議さを示している。文学散歩としては、備仲臣道(びんなかしげみち)の『内田百閒文学散歩』(皓星社、2013年)や、岡山に特化した岡将男の『岡山の内田百閒』(日本文教出版岡山、1989年)がある。
これらを参考にして、筆者(増淵敏之、文化地理学者)は8月上旬に岡山を訪れた。文学散歩は
「コンテンツツーリズム(映画、文学、音楽、アートなどのコンテンツに関連した場所やイベントを訪れることを楽しむ旅行)」
の一環でもある。コンテンツツーリズムは
・文学作品に登場する場所を巡って作者に共感するアプローチ
・作者のゆかりの場所や足跡を訪れてその偉業をしのぶアプローチ
に分けられる。今回は後者の要素が強いかもしれない。
記憶の「故郷」と戦争
内田百閒の戦後の代表作に紀行文シリーズ『阿房列車(あほうれっしゃ)』がある。『第一阿房列車』『第二阿房列車』『第三阿房列車』の3巻が刊行された(1950~1955年)。百閒は、現在でいうところの
「乗り鉄」
であり、同作は目的のない鉄道の旅を楽しむ内容だ。この意味では、先見の達人ともいえるだろう。幼い頃から乗り物が好きだった百閒は、家から旧西大寺駅(現在のJR東岡山駅)まで自転車で汽車を見に行ったという。「鹿児島阿房列車」(『第一阿房列車』収録)では、旧西大寺駅や、百閒のペンネームの由来となった百間川にかかる鉄橋についても触れられている。
また、「不知火阿房列車」(『第三阿房列車』収録)では、太平洋戦争前に恩師の葬儀で岡山に戻ったのが最後だったと記されている。鉄道の旅の途中で岡山駅に停車した際、彼は駅の外に出なかったようだ。岡山も戦禍に見舞われ、岡山城の天守閣も燃え落ちるほどの大規模な被害を受けた。そのため、彼は記憶のなかの「故郷」を大切にしたのだろう。
文学散歩を一般化させたのは、詩人、文芸評論家、文芸編集者として活躍した野田宇太郎の『新東京文学散歩』(1951年)だ。この書籍は当時のベストセラーとなった。近代文学の中心だった東京は戦争で焼け跡となり、彼はその失われた街のなかで
「文学者たちの幻影」
を追い求め、文学散歩を始めた。その後、この散歩の範囲は全国に広がっていった。日本では江戸時代から、戯作(げさく)や物語が旅人の関心を集めていたが、本格的に文学散歩ブームを起こしたのは野田だろう。
文学が描く「消えた街」
文学散歩をアカデミックなレベルに引き上げたのが前田愛の『都市空間の中の文学』(1982年)だ。この書籍では、文学作品をテキストとして都市空間を読み解くアプローチがとられている。一種の
「場所論」
といえる。場所論とは、特定の場所や地域が持つ意味や価値を探る学問分野で、地理学や社会学、文化人類学、文学などで用いられる。この分野では、場所の物理的特性だけでなく、歴史や文化、社会的背景、個人やコミュニティーの経験など、さまざまな要素を考慮する。
簡単にいえば、文学作品を通じて都市や地域を理解する作業だ。野田宇太郎の場合も同様で、文学作品には消えてしまった場所が多く描かれているため、かつての都市や地域の姿を確認するのに有効なテキストとなる。
前述のように、百閒は故郷である岡山を深く愛していたため、戦後は岡山に帰らなかった。この感覚は、地方出身の筆者にも理解できる。多くの変遷を経て、自分の故郷がいつの間にか
「他人のようなまち」
に感じることは、百閒の感覚と似ているかもしれない。
生家跡から見える岡山
8月上旬に岡山を訪れた――という本題に戻る。
JR岡山駅を下りて、生家跡へ向かった。百閒の家は造り酒屋で「志保屋」と呼ばれていた。彼が幼少期には裕福だったが、次第に家業が傾き、旧制中学時代には困窮するようになった。生家跡は岡山市内を流れる旭川を東に渡った古京町(ふるぎょうちょう)にあり、現在はマンションの工事が進んでいる。生家跡の碑を探すのに少し手間取ったが、近くの企業の社屋の前に見つけることができた。
彼が通った旧制岡山中学は現在の岡山城内にあり、百閒の家からは徒歩圏内だった。旭川の東岸の土手からは、復元された岡山城の天守閣が見える。その後、彼は第六高等学校に通うことになるが、そこは中学とは反対方向にあり、彼の家から5分もかからない距離だ。現在の岡山朝日高校は、かつて第六高等学校があった場所だ。六高は岡山大学に引き継がれており、岡山朝日高校の敷地は県立高校としては広く、六高時代の建物もいくつか残っている。
中学生の頃、百閒は文学に目覚め、『文章世界』という雑誌に小品を投稿して入選した。そして高校時代には、俳句に本格的に取り組むようになる。しかし、彼は東京帝国大学に進学するため、岡山を離れた。
彼の墓は岡山朝日高校の裏手にある操山(みさおやま)の中腹にある安住院にある。実は、百閒の墓は東京にもあり、中野の金剛寺にその場所がある。ここには分骨されているそうだが、場所を探すのにかなり苦労した。主要な墓地にはなく、右手の石段を登った狭い範囲のなかにあった。墓探しにはこのように苦労することも多いが、敬愛する人物の墓を見つけた時の感動は格別だ。
70万人都市が誘う文学散歩
岡山は戦後の復興に成功し、四国と結ぶ重要な拠点になっている。現在の人口は70万人を超える政令市だ。百閒が過ごしていた戦前の岡山とは、かなりの違いがあるだろう。
文学散歩では、小説の舞台を巡るだけでなく、作家の足跡をたどることもできる。どちらの形でも、作家の思いや感動を共有することに意味がある。
最近は活字離れが叫ばれることが多いが、文学散歩は
「コンテンツツーリズムの原点」
ともいえる。もっと多くの人々が文学に興味を持ってくれることを切に願っている。
百閒は不思議な作家だ。自由奔放に生きながら、今でも多くの作家や文芸評論家が彼の作品に触れざるを得ない存在だ。筆者も今後は機会を見つけて、『阿房列車』の旅をしてみたい。
10/27 21:31
Merkmal