大阪はなぜ「ため池」だらけなのか? 1平方kmあたりの密度「全国2位」の納得理由

大阪府の驚異的密度

大阪府のため池(画像:大阪府)

大阪府のため池(画像:大阪府)

 大阪府は国内でも有数の「ため池」が多い地域だ。ため池の数は1万1102か所あり、数では全国1位の兵庫県(4万3321か所、)や2位の広島県(2万183か所)には及ばない。

 しかし、1平方キロメートルあたりの密度は5.8か所で、香川県(7.8か所)に次いで

「全国2位」

となっている。大阪府内にこれほど多くのため池がある最大の理由は、

「降水量が少ない」

ためだ。もともと瀬戸内海地方は降水量が少ない地域で、2022年の全国平均の降水量は1550ミリ、降水日数は112日だったが、大阪府は

・降水量:1058ミリ(全国平均の68%)
・降水日数:92日(同82%)

だった。この少ない降水量が、農業用水を確保するために多くのため池が築かれた理由だ。

 ただ、大阪府のため池の特徴はその数だけではなく、

「歴史の古さ」

も注目に値する。日本のインフラ史において重要な存在なのだ。例えば、府南部に位置する大阪狭山市にある狭山池は、日本最古のため池とされ、国の史跡にも指定されている。その築造年代は不明だが、『古事記』や『日本書紀』にその記録が残っており、平成の改修工事で見つかった木製の樋(とい)が年代測定で飛鳥時代の616(推古天皇24)年頃のものとされていることから、この時期に築かれたと考えられている。

古代大阪を潤した水利システムの謎

狭山池(画像:写真AC)

狭山池(画像:写真AC)

 注目すべきは、このため池の「築造技術」だ。狭山池は、金剛山系を流れる天野川と三津屋川の水を、東西に伸びる直線の堤でせき止めている。その堤には樋管が設置されていて、水量を管理できる高度な仕組みが取り入れられている。築堤には

「敷葉工法(しきはこうほう)」

と呼ばれる技術が使われていて、植物の葉や枝、樹皮などを何層も敷き詰めて土を積み上げる方法だ。こうした高度な技術が早くから存在していたことが、現在の大阪府に多くのため池がある理由になっている。

 では、なぜこの技術が現在の大阪府一帯に存在していたのか。敷葉工法は、中国の江南地方で始まり、朝鮮半島を経て日本に伝わったものとされている。そして、この技術が伝わった地理的な条件こそが、大阪の古代からの繁栄やため池を含む高度な水利システムの発展を理解するカギになるのだ。

 では、大阪の地形的な優位性とは何だったのか。それを知るためには、大阪の地形の変遷を追う必要がある。

 現在の地形図を見ても、大阪平野はわずかな高地を除いて広大な低地が広がっている。しかし、古代の大阪平野の地形は現在とは大きく異なっていた。かつて、大阪湾は現在よりも内陸深くまで入り込んでおり、生駒山の麓近くまで大きな入り江、つまり河内湾が広がっていた。そして、そのなかに

「上町台地(現在の大阪市中央部を南北に走る、標高20~25mの細長い台地)」

と呼ばれる細長い台地が、まるで半島のように北へ突き出していた。

 この上町台地の北側にあった砂州は時代とともに北へ延び、縄文時代中期には淡水化が進み、弥生時代には河内湖となっていた。この河内湖には、北から淀川、南から大和川が大量の土砂を運び込んでいたため、湖は徐々に埋まっていった。そして、弥生時代後期から古墳時代前半にかけて河内湖は縮小し、その跡地に河内平野が形成されていった。

 こうして、河内湖の縮小にともなって形成された低湿地帯は農業に適した環境となり、稲作が盛んに行われるようになっていった。

交易の起点、大阪平野

大阪平野周辺の地形図(画像:Batholith)

大阪平野周辺の地形図(画像:Batholith)

 現在、大阪府内で最古とされる水田跡は高槻市にある安満遺跡のもので、弥生時代前期(約2500年前)にさかのぼる。正確には、近畿地方で最古とされている。また、弥生時代中期の森小路遺跡(大阪市旭区)からは、稲作が行われていたことを示す石包丁や木製の鍬(くわ)、臼などの農具やもみ跡のある土器が発見されている。水田は見つかっていないものの、周辺の低湿地には水田があったと考えられている。

 大阪平野の低湿地で稲作が盛んになると、余剰生産物が生まれ、これが交易の基盤となった。この点で、大阪平野は地理的に非常に恵まれた場所にあった。西は瀬戸内海に面しており、これが自然の海上交通路として機能し、大陸や朝鮮半島との交流を可能にした。東には淀川があり、さかのぼることで京都方面への交通路となった。また南には大和川があり、奈良盆地とを結ぶ水路となっていた。

 このような水上交通の要衝に位置することで、大阪平野は単なる農業生産地ではなく、さまざまな物資の集散地としても発展していった。農産物や手工業品の交換が活発化し、その過程で人々が集まるようになった。農業生産の向上と交易の活発化が相互に作用し、人口の増加や新たな技術の導入を促進した。その結果、大阪平野ではさらなる開発が進み、水路の整備や新たな農地の開拓、集落の形成などが行われ、地域全体の発展につながった。

 このような農地の開発や港の整備といった大規模な土木工事は、実は古墳時代(3世紀後半から7世紀頃)にはすでに本格的に行われていた。この時代には、大型古墳の造営技術が発達し、それが土木工事全般の技術向上をもたらした。具体的には、

・大規模な盛り土
・堤防の構築
・水路の開削

などの技術が確立された。

 特に注目すべきは、これらの技術が古墳造営だけでなく、農地の造成や港湾施設の整備にも応用されたことだ。大規模な堤防や水路の建設は、洪水の制御やかんがいシステムの改善につながり、農業生産性を大幅に向上させた。また、港の整備は

「海上交通の発展」

を促し、より広範囲な交易を可能にした。

 これらの土木事業は単なる技術的成果にとどまらず、当時の政治権力の象徴でもあった。大規模な土木工事を行う能力は、その政権の経済力と組織力を示し、新たな農地や交易路の確保によって、さらなる経済的・政治的影響力の拡大につながった。

河内湖の洪水対策とその成果

『日本書紀』(画像:講談社)

『日本書紀』(画像:講談社)

『日本書紀』の仁徳天皇11年には、次のような事跡が記録されている。

「十一年夏四月戊寅朔甲午、詔群臣曰「今朕視是國者、郊澤曠遠而田圃少乏、且河水横逝、以流末不●。聊逢霖雨、海潮逆上、而巷里乘船、道路亦泥。故、群臣共視之、決横源而通海、塞逆流以全田宅」

11年の夏、4月17日、天皇は群臣に詔を出して言った。

「今、この国を眺めると、土地は広いが田んぼが少ない。また、河の水が氾濫し、長雨が続くと潮が陸に上がり、村の人々は船に頼らざるを得ず、道路は泥に埋まってしまう。群臣はこれをよく見て、あふれた水を海に流し、逆流を防いで田や家が浸からないようにしなさい」

これは、河内平野を流れる川の流路を変え、農地を開発したことを示す事跡だと考えられる。上記の記述に続いて、次のように書かれている。

「冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江」

冬の10月、宮の北部の野を掘り、南の水を引き入れて西の海に流し込み、その水を「堀江」と名付けたのだ。

 この堀江とは、「難波堀江(なんばのほりえ)」と呼ばれる運河のことだ。これは、前述の上町台地を東西に貫通する運河であった。この運河が開削されたことにより、上町台地の北にある砂州によって妨げられていた河内湖の排水が改善され、洪水や高潮の危険が低下した。その結果、河内湖の水量が安定し、周辺の農地開発が容易になった。

 難波堀江の開削は、同時に「難波津(なにわのつ)」と呼ばれる港湾施設の整備にもつながった。難波堀江が内陸と海を結ぶ水路として機能することで、難波津は古代西日本の中心的な貿易港としての地位を確立した。

 現在までに難波津の明確な遺跡は見つかっていないが、『日本書紀』の継体天皇6年12月、斉明天皇6年5月の記述からは、この地に諸国の使者を迎える館が設置されていたことがわかる。この難波津は西へは瀬戸内海を経由して九州や朝鮮半島へ、東には河内湖や淀川、大和川を経由して畿内各地を結ぶ交通の要衝として機能していたのである。

仁徳天皇の治水革命と農地開発

『古事記』(画像:岩波書店)

『古事記』(画像:岩波書店)

 同じ時期に、仁徳天皇は淀川の流路を安定させるために「茨田堤(まむたのつつみ)」を築いたとされる。この堤防の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに残っており、考古学的に実際に築かれたことが確認されている。

 この治水事業の成果として、仁徳天皇13年には「茨田屯倉(まむたのみやけ)」が設置されたことが『日本書紀』に記されている。屯倉は

「ヤマト王権の直轄支配地」

で、新たに開発された肥えた農地を効率的に管理するために設置されたと考えられている。これらの記述から、一連の大規模な土木工事によって新しい農地開発が進められたことがわかる。また、『古事記』にも次のように記されている。

「作茨田堤及茨田三宅、又作丸邇池・依網池、又掘難波之堀江而通海、又掘小椅江、又定墨江之津」

茨田堤および茨田三宅を作り、また丸邇池(わにのいけ)や依網池(よさみのいけ)を造り、難波の堀江を掘って海に通し、小椅江(おごしえ)を掘り、墨江(すみのえ)の港を整備したのだ。

 丸邇池は現在の大阪府富田林市にある粟ヶ池、依網池は現在の大阪市住吉区にあった池(現在は碑が立っている)と考えられている。これらの記録は、古代から大阪地域で広範囲にわたるため池の整備が行われていたことを示す重要な証拠となっている。

 仁徳天皇の在位は4世紀後半から5世紀前半とされている。このように、王権による早期からの計画的な開発と、それを支える高度な土木技術が、大阪に多くのため池が存在する根本的な理由だろう。この古代からの水利システムの伝統が、現在まで続く大阪の豊かな水文化の基盤となっているのだ。

交易と農業が生んだ力

仁徳天皇古墳と電車(画像:写真AC)

仁徳天皇古墳と電車(画像:写真AC)

 古代畿内における政治権力の形成については、長い間議論が続いてきた。

 これまでの主流な見解は、奈良盆地に勢力を持つヤマト政権が河内平野に進出したというものであった。しかし近年の考古学的発見や文献の再解釈によって、河内平野を基盤とする独自の政権(いわゆる河内政権)が成立し、そこから勢力を拡大したという説が有力になってきている。この河内政権は、応神天皇の時代に始まり、仁徳天皇の時代に大きく発展したと考えられている。

 河内政権の力の源泉は、

・地理的優位性を生かした交易
・豊かな農業生産

であった。特に重要なのは、仁徳天皇の時代に実施された大規模な土木工事である。難波堀江の開削や茨田堤の築造などは、単なる治水事業ではなく、政権の存立基盤を強化する重要な国家プロジェクトだった。これらの事業は、水系の支配を通じて農業生産を安定させ、水上交通路を整備することで交易を促進する役割を果たした。つまり、これらの土木工事は河内政権の経済基盤を強化し、政治的影響力を拡大するための戦略的な取り組みだったのである。

 この地域が古代の首都機能を果たしていた期間は想像以上に長い。仁徳天皇の時代、すなわち4世紀後半から5世紀前半にかけて、難波高津宮が上町台地に置かれたとされる。その後、6世紀末から7世紀前半にかけて政治の中心が飛鳥に移ったが、645年の乙巳の変(大化の改新)を経て、652年には孝徳天皇によって再び大阪平野に遷都が行われている。

 難波高津宮の正確な位置は不明だが、難波長柄豊碕宮は現在の大阪城の南に位置していたことがわかっており、一部は現在の難波宮跡公園となっている。特筆すべきは、古代において複数回にわたり皇居が上町台地周辺に置かれたことである。この立地選択は、難波津を中心とする交易圏の重要性を如実に示している。

 このように、大阪平野が古代から首都として選ばれ続けたのは、その地理的優位性と、それを生かした経済的繁栄があったからだ。そして、その繁栄を支えたのは、前述の治水事業や農地開発である。ため池などの水利施設の発展は、古代国家の戦略と密接に結びついていたのである。

大阪の繁栄、千年の証し

大阪府のため池(画像:大阪府)

大阪府のため池(画像:大阪府)

 ところで、大阪平野の最大の特徴は、古代以降も途切れることなく都市が繁栄し続けたことだ。この点を他の古代都市と比較すると、大阪の特異性が際立つ。

 例えば、奈良時代(710~794年)の都である平城京が置かれた奈良市は、平安京への遷都後も宗教都市として存在したが、その規模は大きく縮小した。同様に、平安時代(794~1185年)以降、日本の政治や文化の中心となった京都も、江戸時代(1603~1868年)には奈良ほどではないものの、政治的・経済的地位を失った。

 一方、大阪は時代とともにその姿を変えながらも、一貫して繁栄を続けてきた。7世紀の難波宮の時代には古代国家の中心として、その後は瀬戸内海交易の拠点となる港湾都市として発展した。中世には四天王寺を中心とした宗教都市になり、16世紀末には石山本願寺や豊臣秀吉による大坂城の築城によって、戦国時代を代表する都市に変貌を遂げた。

 江戸時代には「天下の台所」と呼ばれる経済の中心地となり、現代に至るまで日本を代表する大都市であり続けている。都が置かれた期間は短いが、都市としての歴史は京都よりもはるかに古く、その繁栄の継続性は他には見られない。

 大阪が長期にわたって繁栄を続けた背景には、古代から連綿と続く

・運河
・治水
・ため池

といったインフラの整備がある。特にため池は、農業用水の確保だけでなく、洪水調整や生活用水の供給など多目的に機能し、都市の持続可能性を高める重要な役割を果たしてきた。

 大阪に多数存在するため池が示唆するのは、適切なインフラ整備が50年や100年といった短期的なスパンではなく、1000年単位で地域の発展に影響を及ぼすという重要な事実なのである。

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