消えた1万キロの鉄道網「もう一つの“国鉄”」とは? 日本が失った“縄文時代からの営み”

全国から消えた約1万キロの鉄道網、それが「森林鉄道」です。その多くは国が建設し、木材運搬だけでなく山林で働く人々の生活を支えていましたが、戦後は急速に衰退。いま、各地に眠る森林鉄道の跡は何を物語っているのでしょうか。

JR線より全然長い! 青森・秋田のすさまじい廃線網

 青森県内のJR線の総延長はおよそ420km、青い森鉄道と合わせて540kmあるのですが、かつてこれとは別に、その倍以上となる932kmの鉄道網がありました。津軽半島や下北半島に集中して毛細血管のように鉄道が張り巡らされていました。

 人があまり住んでいない半島の山中にあったのは、主に青森ヒバを搬出するために国が敷設した「国有林森林鉄道」でした。青森・岩手・宮城・秋田・山形の5県を管轄する東北森林管理局の管内だけで473路線、2949kmもあったのです。

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北海道・丸瀬布森林公園いこいの森で走る蒸気機関車「雨宮21号」。かつて森林鉄道で使われた車両が観光資源になっている(乗りものニュース編集部撮影)。

路線網は全国1万キロ!

 1899(明治32)年に国有林の積極経営が始まり運材手段の近代化が進められました。1904(明治37)年には現在の和歌山県九度山町に初の木材運搬軌道が敷設され、1908(明治41)年には現在のJR津軽線、津軽鉄道線に沿って青森-蟹田-喜良市(現金木町)67kmを結ぶ日本初の国有林森林鉄道が開通。やがて全国で森林鉄道網が作られていきます。

 森林鉄道の稼ぎ頭は青森ヒバに加え、秋田スギ、長野の木曽ヒノキ、高知の魚梁瀬(やなせ)スギといった天然林の伐採でしたが、熊本、宮崎、屋久島にも長大な路線が築かれました。

 国有林森林鉄道は林道(本線)、支線、分線、作業軌道と種類があり、軌間は762mm(2フィート6インチ)に統一され、幅は1.8m~2.7m、最小曲線半径は12m~30m程度でした。戦後には規格が1級・2級に統一されていきます。

 国有林森林鉄道のリストは林野庁のwebで公開されており、このほかに森林組合、民営、大学演習林などの路線を加えると、筆者が把握しているものだけで合計1374路線総延長9221kmとなり、全国で1万kmの森林鉄道があったと推測しています。

 このほか日露戦争後に日本の領土となった樺太や台湾にも森林鉄道は建設されました。現在は観光鉄道として知られる台湾の阿里山鉄道もその一つで、ベニヒ(台湾紅檜)の巨木が日本の社寺建築に多く用いられました。

山の中に“街” 通学も森鉄で

 森林鉄道の周辺には製材所だけでなく、林業で働く人とその家族も多数住んでいました。山の中に街があったのです。場所によっては商店、映画館なども立ち並び、学校もあり子供らの通学のための列車も走りました。森林鉄道は鉄道事業法による鉄道ではなかったため、これは“便乗”というグレーな扱いだったそうです。

 かつての秋田駅東口は、仁別森林鉄道の貯木場とターミナルがあり、山と秋田市内を行き来する多くの人々と荷物と木材が行き交っていました。

 森林鉄道の保線や駅の運転扱いは、林業従事者の家族が担っていることも多く、背中に赤ん坊を背負ったお母さんが炊事の合間に電信を打ち、列車運行に必要なタブレット(通票)を受け渡したり、線路のポイントを操作したりしていました。今は人気が無い、深い山中にかつて鉄道が敷かれ、街があり、暮らしと仕事と鉄道が混ざり合っていたのです。

 今は寂しくなったり廃止されたりしたJRのローカル線なども、かつては森林鉄道が集めた木材の輸送で賑わっていました。森林鉄道が毛細血管のように貨物を集め、鉄道に流し込んでいたのでローカル線も中山間地も賑わっていたのです。

山はゼロカーボンのエネルギー源だった

 森林鉄道が運んだのは、木材や住民だけではありませんでした。福島などの山中には国営の炭焼き工場があり、森林鉄道で木炭を搬出していました。

 炭焼きというとお爺さんが一人釜で炭を焼き、背負子で運ぶというイメージがあるかもしれませんが、国営の工場で炭を生産し鉄道で輸送していたということは、もうこれはエネルギー産業そのものです。かつて山陰の木炭は山陽の製鉄所で使われていました。

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高知県・伊尾木森林鉄道の遺構(山田和昭撮影)。

 木炭は樹木が二酸化炭素を吸収したものを燃やすので、排出量はゼロとカウントされます。しかも雨が多い温帯の日本では樹木が育ち、再生可能です。木を切って砂漠化してしまった中東などと異なり、日本は縄文時代から植林をして森を守り活用してきました。これを近代産業に活かしたのが林業と森林鉄道だったのです。

 遠くの外国からはるばると運んできた石油や天然ガスを燃やして発電し、これをバッテリーに貯めて走らせるとエコと言われるのが現代ですが、すぐそこにある山が、再生可能なゼロカーボンのエネルギー源だったことを思い出しても良いのではないでしょうか。

縄文時代からの営みは急速に失われた

 森林鉄道が急速に衰えたのは戦後に入ってからです。

 モータリゼーションが進み、1969(昭和34)年に「国有林林道合理化要網」が発出され、全国の木材輸送はトラックに切り替えられます。本州で最後まで残った王滝森林鉄道が廃止されたのは1975(昭和50)年のことでした。

 さらに安価な海外の木材が輸入され、日本の木材は売りづらくなり、石油の輸入により木炭も売れなくなりました。こうして、山の中で多数の人が働き、ローカル線にも貨物を注ぎ込んでいた林業も森林鉄道も消えていったのです。

 代わって建設されていった自動車向けの林道は、森林鉄道が幅2m弱の軌道で大量の木材を運べるのに対し、10m近くの幅を持つものも建設されました。急峻な日本の山岳では、道路幅を広めると山の斜面も大きくえぐられてしまい、斜面崩壊の原因になっているとも考えられます。

 海外では山から切り出した木材を鉄道が岸壁まで運び、そこから船で輸出する一貫輸送体制が出来上がっています。新しい技術で効率的な木材輸送が実現したら、日本の林業や中山間地も再生できないものかと筆者は思います。

まだある!現役の森林鉄道

 現役の森林鉄道は、屋久島の安房(あんぽう)森林鉄道のみで、それ以外は全て廃止になりました。一方、観光用に“復活”したものは、長野県上松町の赤沢自然休養林、北海道遠軽町の丸瀬布森林公園いこいの森、高知県馬路村の魚梁瀬などで見ることができます。

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高知県の魚梁瀬では森林鉄道の機関車の体験運転もできる(山田和昭撮影)。

 魚梁瀬森林鉄道のトンネルと橋梁は森林鉄道遺構として国の重要文化財指定を受けました。馬路村、魚梁瀬ではゆずと森林鉄道を村おこしのツールとして活用しています。観光や近代化の歴史教育にも森林鉄道は活用されているのです。また、各地の森林には二酸化炭素の吸収だけでなく、平家落人や修験者、木地師といった山の“文化”も息付き、神々しい姿はお金だけの価値では計れません。

 日本の国土の7割は山林ですが、そこで働く人はわずか0.03%。森林は十分に使われずに眠っています。縄文時代から守り続けてきた日本の森林資源が、かつては大活用されていたことを、森林鉄道の廃線跡は静かに物語っています。

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