「救助ヲ乞フ…」日露戦争で敵兵を介抱した島根の人々って!? 120年続く祭りの原点にも

世界史にもその名を刻む日露戦争での日本海海戦。東郷平八郎司令長官率いる日本艦隊の完全勝利となったことはよく知られますが、その裏で、人知れず沈んだロシア船の乗組員を救った島根の人々がいました。

沈みかけたロシア船の苦渋の決断

 ある日突然、戦争状態にある敵艦の将兵が助けを求めてくる。「戦争捕虜の保護」に関する国際的な取り決めなどがほとんどなかった時代、いまから120年ほど前の1905年、日本人が敵兵を救助するといった知られざる出来事が起こりました。

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日本海海戦時のバルチック艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」。「イルティッシュ」は、この全38隻からなる大艦隊の一員として日本海海戦に参加した(画像:パブリックドメイン)。

 日露戦争中の1905年5月27日、旧日本海軍とロシアのバルチック艦隊が激突した日本海海戦。そこに参加していたロシア艦の一隻に運送船「イルティッシュ」がありました。この海戦で、バルチック艦隊はほぼ全ての大型艦を喪失し、日本艦隊の大勝利で終わります。

 当時の艦艇は石炭を燃料としていたため、「イルティッシュ」は、それら艦艇への石炭や予備の砲弾などを運ぶ船として参加していました。

 海戦が開始されると、イルティッシュ号は大量の可燃物や爆発物を積載していたため、何としても敵砲弾にあたるまいと、回避行動を取りながら航行していました。しかし味方はどんどんやられ敗戦が確定。そこで、敗走しようとしますが、日本艦艇の追撃を受けて、その攻撃によって船体は激しく浸水し始めます。

 なんとか日本側の追撃を逃れ、ウラジオストク港を目指して航行するものの、浸水のために島根県江津市和木真島沖で航行不能に。そこで、艦長は意を決しB旗(我ハ烈シク攻撃ヲ受ク)とN旗(救助ヲ乞フ)の国際信号旗を掲げて投錨、乗務員は6隻のボートに分乗し船を脱出しました。

 このとき、和木真島沿岸では警察官が警戒に当たっていたところ、ロシア兵たちの乗ったボートが近づいてきたため大騒ぎになったといいます。しかし、ロシア兵たちが白旗を掲げていることを確認すると、すぐに住民たちは総出で救助にあたりました。

 しかし、折からの強風でボートはあおられ、転覆したり岩に乗り上げたりして、思うように救助は進みません。住民たちは「こっちへこーい、こっちへこーい」と必死に呼びかけながら女性たちまでも海の中へ入り、乗組員たちを必死で岸へと引き上げたといいます。

慰霊碑だけでなく由来の祭りまで定期開催

 救助された乗組員の数は諸説あり不明です。というのも、日本海海戦で多くのロシア艦艇から兵士が投げ出され、島根沿岸へと上陸しているからです。この時も、「イルティッシュ」だけでなく巡洋艦「ウラル」の乗組員も上陸しており、合わせて200名以上のロシア兵が捕虜になっています。

 救助した江津市和木の人々は、「イルティッシュ」の乗組員たちを丁重に扱い、海に入って、流された彼らの備品や遺品まで集めるといったことまで行いました。

 日本海海戦に勝利した後、日露両国はポーツマス条約を結び日本の勝利が確定しますが、賠償金は取れず、日本全体に「講和反対、ロシア憎し」のムードが漂います。そうした中においても「イルティッシュ」の乗組員を救出した人々は、彼らのことを忘れず、「イルティッシュ」の慰霊碑も立てられています。
 
 そして、現在まで戦争による中断をはさみながらも、毎年「ロシア祭」が行われています。戦争中の敵対関係にありながらも、そこには間違いなく友情と呼べるような関係が築かれていたことがうかがえます。

 また、「イルティッシュ」乗組員救助を題材とした、『イルティッシュ号の来た日』という映画も2022年に制作されています。

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「イルティッシュ」を追撃したとされる日本海軍の防護巡洋艦「浪速」(画像:パブリックドメイン)。

 ちなみにこの「イルティッシュ」、なぜか「金塊が積載されていた」という噂が何度か流れ、船の引き上げを試みようと調査が行われています。第二次世界大戦後の1959年には、実際に引き上げが試みられましたが失敗。機雷が発見されただけに終わりました。

2007年にもロシア船により調査が行われましたが、その結果の詳細は公開されていないようです。

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