“対ゴジラ兵器”として復活! 異形の戦闘機「震電」プロペラ後ろ向きの激レア機 国内でも見られます

今から79年前の1945年8月3日、海軍の試作機である「震電」が初飛行しました。プロペラが後ろにあり、水平尾翼もない異形の機体でした。どのような理由でこのような形状になったのでしょうか。

機体後部にエンジンとプロペラあるメリットは?

 今から79年前の1945年8月3日、旧日本海軍が本土防空の切り札として開発した試作戦闘機「震電」が初飛行しました。

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震電を後方から見たところ(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。

 同機は、局地戦闘機と呼ばれる機種でした。「局地」とは、限定されたエリアの中で用いるという意味の海軍用語で、すなわち同機は迎撃用の戦闘機として開発されたことになります。その姿はかなり特徴的で、機体後部にエンジンとプロペラがついています。

 エンジンが後部についている機体は推進式またはプッシャー式などと呼ばれます。実は世界で初めて飛んだ飛行機であるライト兄弟の「ライトフライヤー号」はこのプッシャー式を採用しており、今日では見慣れた感のある前方にエンジンを搭載するトラクター式の方が、登場は遅いのです。

「震電」は、そのプッシャー式のなかでも前翼(エンテ)機に分類されます。水平尾翼を廃し主翼の前に水平小翼を設置した飛行機で、この種の軍用機は第二次世界大戦中、日本のみならず世界中で研究されていました。

 旧日本海軍においては、十八試局地戦闘機と呼ばれ、1943年頃から基礎研究や開発が始まっています。検討初期から高速戦闘機を目指して開発され、そのなかで主翼をコンパクトにすれば空気抵抗を抑えられるとして、エンテ機が最良だという結論に至りました。同年8月に海軍航空技術廠で試作機模型の風洞実験を実施。翌1944年1月末には、実験用小型滑空機を用いた高度約1000mからの滑空試験にも成功しています。

対B-29の切り札として注目されるように

 ただ、開発当初は前例のない構造の機体ということで、海軍上層部もあまり乗り気でなかったといわれています。その考えが大きく変わったのが、大型爆撃機による本土空襲の脅威です。1944年に入ると日本は敵であるアメリカに対し、完全に劣勢でした。サイパン島にアメリカ軍が攻め込んでくるのも時間の問題と言われており、同地を奪われ、米本土で開発中の新型爆撃機(B-29)が同島を拠点に飛び回るようになると、日本本土の全域が空襲の脅威にさらされるようになるのは明白でした。

「震電」には、そうしたアメリカ軍の大型爆撃機に対抗できる高速と高高度飛行能力があると判断され1944年5月、本土を空襲の脅威から守ることを目的に同機の開発が許可されます。

 しかし、予想よりもアメリカの大型爆撃機開発スピードは早く、1944年6月には中国大陸にB-29が配備され、九州地方への爆撃を開始。同年7月にはサイパンが陥落し、11月には恐れていた本格的な本土空襲が始まってしまいました。

 こうした過酷な状況下で、「震電」の開発を任された九州飛行機は、技術者を総動員し、開発許可からわずか半年という驚異的な速度で設計図を完成させます。

 その後は、エンジンの開発にあたっていた三菱重工の名古屋工場がB-29の爆撃被害に遭うなどして、開発が危ぶまれたものの、工場の疎開などを続け、1945年6月開発から13か月という短期間で試作1号機の完成にこぎ着けます。そして8月3日に初飛行を実施し、8月8日にも試験飛行を行い良好な結果を得ますが、量産に入る前に終戦を迎えました。

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アメリカに保管されている震電の胴体部分(画像:アメリカ国立航空宇宙博物館)。

 それから約80年後、「震電」はゴジラ映画の最新作として2023年末から2024年上半期にかけて国内外でヒットした『ゴジラ-1.0』に“主人公機”として登場し、アメリカ軍ではなくゴジラ相手に大立ち回りすることになりました。

 なお、この『ゴジラ-1.0』の制作に用いられた震電の実物大レプリカが、福岡県の筑前町立大刀洗平和記念館に展示されています。当初は『ゴジラ-1.0』で使われたことは伏せられていましたが、映画封切り後にその事実が公になっており、映画の大ヒットにより注目を集めています。

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