戦闘機に“戦車砲”そもそもなぜ付けた? 無理あっても奮戦した旧陸軍機 「双発戦闘機」の顛末
1930年代末、欧米で模索された戦闘機に「双発万能戦闘機」がありました。エンジンを2つにすれば、高速性と大航続距離に加え重武装が実現できると見なされたのです。日本も旧陸海軍がそのような戦闘機を試作しました。
流行した双発戦闘機
1930年代前半、戦闘機は単発で運動性を重視し、7.7mm級の機銃の搭載が多く見られました。しかし、1934(昭和9)年になり、フランスとドイツで「双発戦闘機」構想が生まれます。
エンジンを2基にすることで機体を大型化し、単発機よりも格段に多い燃料を搭載することで、航続距離の延伸が可能となると見なされたのです。さらに複座(2人乗り)とし航法士を乗せれば、長距離侵攻に好都合と考えられました。双発戦闘機は、両翼にエンジンを積み、空いた機首に大口径機銃を搭載したり、胴体に爆弾を積んだりすることで、軽爆撃機としても使える万能機と考えられたのです。
フランスは1936(昭和11)年にポテーズ630を試作。単発のドボアチンD500より90km/hも速い450km/hを記録しました。ドイツもメッサーシュミットBf110が505km/hを記録。当時の単発戦闘機He51より170km/hも速いことから、万能機が現実化したかと思われました。
旧日本陸軍もこの動きに反応し、重爆撃機を護衛できる長距離戦闘機「キ38」の試作を開始します。陸軍は、双発戦闘機に後方を撃てる旋回機銃を搭載すれば、後ろから襲いかかる単座戦闘機を追い払えると考えました。
ただ、国産の12.7mm機関砲もない時代のことで、機種の7.7mm機銃3門、7.7mm旋回機銃1門と、当初の武装は貧弱なものでした。要求された航続距離も、単発戦闘機と大差ない1000km程度で、陸軍の見識が疑われるような要求性能でした。
それでも「キ38」は実用機を目指す「キ45」へと進化し、1938(昭和13)年から本格設計に入ります。「キ45」では、戦闘行動半径の拡大、武装強化、単発機に対する優速が盛り込まれます。結果、戦闘行動半径800km(航続力2000km程度)、最高速度540km/h、12.7mm機関砲装備とされました。
対爆撃機用として再出発
1939(昭和14)年に「キ45」の試作機が完成しますが、エンジン出力が低いこともあり、最高速度が480km/hに留まるなど性能は要求性能に及ばず、不採用となります。エンジン換装や機体形状の見直しで、最高速度520km/hに達したのを見た陸軍は、翌年に第二次性能向上機として開発を継続。第二次世界大戦緒戦でBf110が活躍したのを知った陸軍は、双発戦闘機に期待していたのです。
しかしこの年に起こった「バトルオブブリテン」で、運動性能に劣るBf110は、イギリス空軍の単発戦闘機「スピットファイア」「ハリケーン」に撃墜され、単発戦闘機のBf109が護衛につく状況でしたが、陸軍は把握していませんでした。
「キ45改」の機首には20mm機関砲1門、12.7mm機関砲2門が装備されました。「キ45改」は1942(昭和17)年に「二式双発戦闘機」として採用。ただし、最高速度547km/h、航続距離1500~2000km程度の性能は、例えば海軍の零戦二一型(最高速度533km/h、航続力は最大3350km)と比べても大したことはなく、運動性では大きく劣りました。
同年4月より実戦投入された二式双戦は、アメリカ軍の単発戦闘機P-40に運動性で劣り、対抗できないことが判明します。戦闘機相手に「使い物にならない」と見なされた二式双戦でしたが、単発機の一式戦闘機がB-17爆撃機に苦戦する状況下で、別の活用方法が考えられます。それは「爆撃機キラー」でした。
二式双戦は胴体下面の武装を九五式軽戦車の主砲である九四式37mm戦車砲に換装。これを乙型としました。命中すればB-17でも一撃の武装でしたが、単砲身の戦車砲ですから1発ごとに装填が必要で、30秒に1発しか撃てませんでした。このため、発射速度120発/分の37mm機関砲「ホ203」を開発し、これを搭載し丙型としました。
本土防空戦に投入 B-29と対峙
陸軍はさらに、20mm機関砲を斜め上に向けた「丁装備」も実戦投入します。これは、海軍の十三試双発戦闘機が失敗した後、斜め上に向けた機銃を装備し、夜間戦闘機「月光」として活躍していることに触発されたものでした。
さらに陸軍は、40mm機関砲を装備した戊型や、57mm機関砲「ホ401」の装備機も試作。57mm砲弾は20mm機関砲弾の18倍の威力があり、9発が搭載されました。しかし、二式双戦の後継機である「キ102乙」ですら、57mm機関砲装備は荷が重く、夜間に発砲すると閃光で搭乗員の目がやられる問題もありました。実戦では「キ102乙」が1945(昭和20)年、B-29に命中させた1例に留まっています。
二式双戦は1944(昭和19)年に「屠龍」の愛称が付けられ、日本本土防空戦に投入されました。とはいえ超大型爆撃機であるB-29は、速度・上昇力・高高度性能の全てで「屠龍」を上回り苦戦。そのようななか樫出 勇大尉のように、「屠龍」でB-29を26機も撃墜したエースも登場しました。
特に1945年よりB-29が夜間無差別攻撃に転じると、「屠龍」は37mm砲や20mm上向き砲で迎撃任務に当たります。しかし硫黄島陥落後、単発戦闘機P-51DがB-29に随伴するようになると、「屠龍」は夜間戦闘と対艦特攻に用いられ、終戦を迎えました。
結局、双発戦闘機で単発戦闘機に対抗できたのは、ドイツ軍のジェット機Me262を除けば、アメリカ軍のP-38「ライトニング」だけでした。P-38は双発ながらも単座(双胴)であり、より高速性を追求できたのです。
旧日本陸軍にも、旋回機銃を廃止のうえ後部座席には基本的に乗員を置かない双発戦闘機「キ-83」の試作機で、最高速度686.2km/h(アメリカ軍の試験では762km/h)を記録。操縦性にも優れていました。「キ45」の時点でこのようなコンセプトが得られなかったことは惜しまれます。
※誤字を修正しました(8月13日15時20分)。
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乗りものニュース