ソ連が生んだ「純度100%のB-29パクリ機」今も日本を脅かす!? その後世は“本家”とはだいぶ違う

第2次世界大戦直後、旧ソ連は米国のB-29そっくりな爆撃機をコピーでつくり上げました。どのような機体だったのでしょうか。

スターリンの恐怖の“命令”によって「完全パクリ機」製造

 第2次世界大戦において日本本土を爆撃し、国民を恐怖に陥れた米国の重爆撃機、B-29。第2次世界大戦直後、旧ソ連が、それとあまりにもそっくりな爆撃機を製造しました。これが「Tu-4」です。

 この機は性能自体は本家に及ばなかったものの、「その後」の系譜はB-29より格段に長く今におよび、その系譜を汲む「子孫」の機体は今も日本を悩ませています。

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Tu-4(画像:Public Domain・Jno)。

 B-29のコピー機を作ろうとするソ連の取り組みは、徹底していました。

 設計に用いたのは「リバースエンジニアリング」という、完成品から逆の工程をたどる技法です。部品の1つ1つを採寸して材質も特定し、設計図を書き上げてコピー品を生産します。近年では、旧日本軍の零戦や一式戦闘機「隼」の再生で用いられていますが、大戦中は鹵獲(ろかく)した敵の兵器を使う際に活用され、旧日本軍でも銃器で試みられました。

 そして、この技法によるTu-4誕生の元になったのが、1944年11月にソ連領内に不時着した3機のB-29です。目を付けたのは、ソ連の指導者であり独裁者としても名高かったスターリンでした。

 当時、ソ連は対日戦に参戦していませんでしたが、B-29の供与を米国に拒否されたこともあり、不時着機の米国への返還を拒否するとともに「丸ごとコピー」の命令を下したのです。

 ソ連は徹底的にリバースエンジニアリングを行ったとか。米国とソ連で製造単位がヤード・ポンドとメートル・グラムで表記が異なるために換算したり、同じ材質の金属が入手できなければ代用品を探したりと、当時の様々な苦労が伝わっています。

 一心不乱ともいえる「B-29のクローンを作る」作業は、戦争の趨勢が明らかになりつつあった翌年2月に行われたヤルタ会談と同じように、戦後を見据えたためとも言えますが、なにより独裁者・スターリンの命令も大きかったでしょう。「丸ごとコピーせよ」の命令に対し、一説には「国籍標識は(米国の)星か赤い星か」とスターリンにお伺いだてされたとか。こうして、B-29の不時着から3年に満たない1947年5月、Tu-4は初飛行しました。

民間転用などはなかったが…実はいまも“子孫”が幅をきかせてる?

 Tu-4はその後850機以上が生産され、空中給油機や早期警戒機の派生型も生まれました。一方、本家B-29もエンジンを強化したB-50の誕生後、C-97輸送機と377「ストラトクルーザー」旅客機へ派生していきます。これに対し旧ソ連でも旅客機型のTu-70がつくられましたが、実用化には至りませんでした。

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B-29(画像:アメリカ空軍)。

 その後、米国ではジェット化によりB-29の“一族”は姿を消しますが、旧ソ連では、Tu-4と同じ胴体直径を持つ大型爆撃機Tu-95が生まれました。B-29を丸パクリしたTu-4の遺伝子を持つと言えるTu-95は今もロシア軍の中核をなし、2020年には近代化改修をしたTu-95MSMも初飛行しています。

 直近でもたとえば2024年4月、2機のTu-95が日本海上空を飛び、航空自衛隊機が緊急発進(スクランブル)するなど、この機体は日本に今も緊張を強いています。昭和の後半、「尾部銃座の銃身がこちらに向けられた」と空自パイロットが語る、洋上で緊迫する冷戦の実態が新聞に載りましたが、このとき銃身を向けてきたのもTu-95でした。

 戦時中、日本はB-29による大規模空襲で窮地に陥りました。そして令和の今もB-29、Tu-4の遺伝子を持つTu-95が日本の安全保障を脅かしていることに、複雑な感情を持たざるを得ません。

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