「潜水艦から飛行機」という発想はぶっ飛んでいたのか 旧日本軍が着々研究したワケ

世界史上で唯一、アメリカ本土を空襲した軍用機は、旧日本海軍の潜水艦搭載機です。潜水艦からの航空機運用は各国が模索しましたが、日本が突出して力を入れたジャンルでした。これには海洋国家日本が置かれた切実な事情がありました。

最初に実現したのはイギリス

「気づかれることなく潜水艦で敵地に接近して、艦内の航空機を発進させる」
 
 これは各国の海軍にとって魅力的なオプションでした。なぜなら航空機が後方を爆撃したり偵察したりすることで、敵軍は対応するリソースを消費しますし、作戦も予想しやすくなるからです。

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アメリカ海軍のS級潜水艦「SS-105」。船体後方(写真左)に小型水上機「マーチンMS」が見える(画像:アメリカ海軍)。

 こうした観点で、最初に潜水艦へ航空機を搭載したのはドイツとイギリスでした。ドイツは第一次世界大戦時から、潜水艦に搭載できる航空機を開発します。「ハンザ・ブランデンブルクW.20」です。これは3機が製造されましたが、実戦には投入されていません。

 イギリスは1918(大正7)年、M級潜水艦(排水量1950t)に搭載された30.5cm砲を撤去すると、そこに水密格納庫を設け、格納庫前方の甲板上にカタパルトを設置。カタパルトからは小型水上偵察機「パーナル ペイト」を発進させました。作戦後は格納庫後ろのクレーンで偵察機を吊り上げて、分解・収納するという構想でしたが、M2潜水艦が事故で失われ、実用化は頓挫します。

 アメリカでは1920(大正)9年、S級潜水艦「SS-105」の艦橋後方に格納庫を設置して、小型複葉水上機「コックス=クレミンXS」「マーチンMS」を搭載。発進時は艦の後尾を沈めるというものでした。1931(昭和6)年にも、飛行艇「ローリングSL」を「SS-105」に搭載しますが、実用的ではないと考えられ、1932(昭和7)年の実験終了で断念されています。

 イタリアでも同時期、1340tの潜水艦に航空機を搭載する実験が行われています。1928(昭和3)年には「マッキM.53」「ピアッジョ P.8」を試作しますが、結局実用化できませんでした。

 1934(昭和9)年、フランス海軍は20.3cm主砲を持つ巡洋潜水艦「シュルクーフ」を就役させます。「シュルクーフ」には水上偵察機「ベソン MB.35」も搭載されていましたが、フランス海軍は航空機の事故もあり、結局「潜水艦に航空機を搭載する価値はない」として降ろしたのでした。

日本、ドイツ機を元に開発へ注力

 日本はドイツから小型水上機「カスパー U-1」を導入し、1925(大正14)年に最初の潜水艦搭載機を完成させます(横廠式一号水上偵察機)。 第一次世界大戦に敗北したドイツでしたが、ハインケル社は潜水艦用の小型機を試作しており、それを日本が極秘で購入したのです。さらに1929(昭和4)年に、伊51潜水艦から横廠式二号水上偵察機が発進し、朝鮮半島南部の鎮海湾にいた演習艦隊の偵察に成功しています。横廠式二号水上偵察機とは「パーナル ペイト」をベースとした機体であり、後の九一式水上偵察機です。

 各国で潜水艦搭載機が失敗する中、日本は成功させたい理由がありました。仮想敵国のアメリカに対して、旧日本海軍は7割以下の艦隊戦力しか持たなかったからです。日本の目論みは、敵艦隊を早期に発見し攻撃を反復して相手を消耗させてから、艦隊決戦を挑むというもの。広大な太平洋では敵艦隊の位置を把握しなければ決戦は成立しませんから、そのための偵察は非常に重要だったのです。

 日本は当時、「敵基地の監視哨戒は、潜水艦を敵地に決死的潜入をさせるか、基地航空機で行うしかない。基地航空機は航続力の関係であてにはできず、潜水艦を敵港湾内に侵入させるのも困難。つまり潜水艦に偵察機を搭載する必要がある」と考えていたのでした。

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飛行する零式小型水上偵察機(画像:アメリカ海軍)。

 こうして九一式水上偵察機が、1932(昭和7)年に制式採用されました。性能は最高速度が169km/h、航続時間が2.06時間。翌1933(昭和8)年には、伊51よりカタパルト発進にも成功しています。

 旧日本海軍は航続力の長い巡洋潜水艦に航空機を搭載することを決意し、巡潜1型改、巡潜2型、巡潜3型、巡潜甲型、巡潜乙型、巡潜乙型改一、巡潜乙型改二の計37隻に、小型水上偵察機の搭載・発進設備を設置していきます。

 1936(昭和11)年には、搭載機として九六式小型水上機も制式採用されました。本機は組み立てや分解が3分で可能という優れもの。ただし、組み上げてから発進するまでには40分ほどかかったようです。性能は最高速度233km/h、航続距離732km、兵装は7.7mm機銃1門でした。

圧倒的な航続力 潜水空母の開発へ

 続いて零式小型水上偵察機が1940(昭和15)年に制式採用されます。性能は最高速度246km/h、航続距離882km、兵装は7.7mm機銃1門と向上しましたが、敵戦闘機と遭遇したら無力でした。太平洋戦争中の1942(昭和17)年、伊25の搭載機がアメリカ本土空襲を敢行しています。これはアメリカ本土に対する、軍用機による史上唯一の空襲です。

 一方、ドイツでは1941(昭和16)年に初飛行した「アラドAr231」がXI型巡洋潜水艦に搭載される予定でしたが、建造が中止されたので、仮想巡洋艦の偵察機となっています。また、回転翼機として「フォッケ・アハゲリス Fa 330」を開発し、一部の潜水艦に搭載。1943(昭和18)年には航空偵察でギリシアの蒸気船を発見しています。これは日本以外の潜水艦搭載機が実戦で活躍した数少ない実例です。

 日本はさらに、アメリカ東海岸やパナマ運河の攻撃用として、水上攻撃機2機を搭載でき、かつ地球を一周できる航続力を持つ「潜水空母」の検討を始めます。伊400型潜水艦(潜特型)です。

 伊400型は18隻の建造が予定されましたが、戦局の悪化で5隻に縮小され(完成したのは3隻)、代わりに搭載機数を3機に増やして対応します。伊400型の穴埋めとして、同時期に建造していた伊13型(巡潜甲型改二)にも、水上攻撃機2機を搭載できるよう変更されました。

 この潜水空母に対応した特殊水上攻撃機「晴嵐(せいらん)」は、最高速度474km/h(フロートを投棄すると560km/h)、航続距離1540km、兵装に13mm機銃1門、800kg爆弾あるいは魚雷の搭載が可能という、これまでの潜水艦搭載機とは次元が異なる高性能機でしたが、戦果をあげることなく終戦を迎えています。

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潜水艦「伊400」。三陸沖で駆逐艦「ブルー」に拿捕された直後の写真(画像:アメリカ海軍)。

 偵察以外の潜水艦搭載機は、ほぼ実戦投入されないままでしたが、ロンドン海軍軍縮条約には「3隻まで排水量2800tの大型潜水艦を作ってもよい」という例外規定がありました。太平洋戦争の開戦前に、潜水空母とパナマ運河を攻撃可能な機体が実用化できていたら、戦局は若干変わったかもしれません。

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