『北風と太陽』の旅人は自ら上着を脱いだのか? それとも脱がされたのか…我々はいかに現実世界を捉えているか

「私が彼の一番になる」逮捕者続出でもホストやメン地下にハマってしまう若い女性が後を絶たない理由「ロジックが霊感商法と同じで…」〉から続く

耐えがたい状況に陥ったとき、「でも、この経験は必要」と自分を納得させた経験はないだろうか? 現実に起こったことを受け入れるために、ひとは物語をもってして意味づけを行なっているという。

【画像】作家の小川洋子さんが衝撃を受けた歴史的洋書

書籍『イマジナリー・ネガティブ』より一部を抜粋・再構成し、我々がいかにして現実世界を捉えているか解説する。

自分だけの物語を紡ぐ時

「人間は誰しも、自分の物語を作りながら生きています。そうでなければ、生きてゆけないのです」。作家の小川洋子さんは、中学3年生の国語教科書に寄せた随筆『なぜ物語が必要なのか』の最後を、このように締めています。

小川さんは、人間が理屈では説明のつかない理不尽やいくら求めても答えのでない疑問などを、物語のかたちに変えて自分なりに受けとめることで、困難の多い人生を少しでも実り豊かなものにしようとしてきたのだと考えます。

マンガ家のよしながふみさんにプロジェクションの研究会へいらしていただいた時、物語が生まれる過程についてディスカッションをしました。よしながさんは、物語とは不条理な出来事を受け入れるために、秩序を正しくしたい気持ちからできるのではないかという仮説と、事故などでお子さんを亡くされた親御さんが新しい立法を訴えたりする事例をあげました。

子どもを突然の事故で亡くすことは、耐えがたい不条理な出来事です。そのままでは、自分の子どもの死はただの不条理な出来事で終わってしまう、しかし、これをきっかけに二度とこのようなことが繰り返されないような法律ができれば、やり場のない想いも昇華できるという「物語」が、残された親御さんが生きていくためには必要なのだろう、とよしながさんは話してくれました。

神経心理学の山鳥重先生は、「わかる」ということは、秩序を生むこころの働きであるといいます。そして、わかったという感情は、快感やこころの落ち着きを生む、と指摘します。

たしかにそうであれば、わからないままでいることとは人間にとって不快なものであり、落ち着かない不安な状態であるといえるでしょう。

認知発達心理学のジェローム・ブルーナー先生は、「物語(narrative)」は人間が物事を理解したり思考する時の重要な枠組みになっていると指摘しています。

そのような物語の特徴には、時間軸に沿って出来事を構造化すること、語られた出来事が事実が否かは問題ではないこと、物語の習得や実践はさまざまな他者を相手にした相互行為のなかでおこなわれること、などがあります。

また、哲学のダニエル・デネット先生は著書『解明される意識』のなかで、自己と物語との関係をこのように表現しています。

「私たちのお話は紡ぎ出されるものであるが、概して言えば、私たちがお話を紡ぎ出すのではない。逆に、私たちのお話の方が私たちを紡ぎ出すのである」。

これは、私たちはプロジェクションによって自分だけの物語を作りだすことだけでなく、それに取りこまれてしまうことで起こる悲劇や苦しみの説明にもなるでしょう。

世界に意味があるとしたら

私たちは、自分をとりまく外界を見つめ、そこから自分の物語を作り、その物語を再び外界に投射します。プロジェクションというこころの働きによって、外界と自分の物語は重ね合わされ、こころと現実はひとつの意味のある世界となります。

外界はただそこに在るだけでは意味を生みません。それをとらえた人のプロジェクションが重ね合わされることで意味を持つのです。世界に意味があるとしたら、そこにプロジェクションがなされているからです。

私たちは、現実世界を生きています。けれど、現実世界だけで生きていくことは、時になかなかしんどいものです。

なんだか生きる力が減っていくばかりと感じるような時、プロジェクションが生みだすイマジナリーな世界があると、目の前の現実からほんの少し離れることができます。

そして、離れることでひとときでも苦しみを忘れ、また生きる力がたまってくることもあります。

先の随筆で小川さんは、アンネ・フランクによる『アンネの日記』を読んで衝撃を受け、それからアンネに語るように、ノートにさまざまな自分の悩みを書き綴ったといいます。

作家になる原点となったそのような体験を通じて、小川さんはこう書いています。

「彼女との間に交わした空想の友情が、どれほど私の救いになってくれたか知れません。当時、私にとっての親友は、自分なりにこしらえた物語の世界に住む、決して会うことのできない少女だったのです」。

人間は生きてゆくために、どうにかして現実と折り合いをつけようとします。自分を現実につなぎとめるために、つかのま現実から離れるのです。そんな時に、プロジェクションが生みだす自分だけの物語は、大切な意味を持つのでしょう。

『北風と太陽』の旅人は自ら上着を脱いだのか? 脱がされたのか?

ここまでは、意識的なプロジェクション/無意識的なプロジェクションについて考えてきましたが、実際の現象においては、そんなにきれいに分かれるわけではないことにも気づきます。

落語やモノマネの鑑賞などでおこなわれているプロジェクションは、意識的なものと無意識的なもののあいだにあるようです。

そこに本物の蕎麦はないとわかっているけれど、噺家の仕草や道具立てによって、自分のなかで蕎麦に関する表象を再構成し、噺家の仕草や道具立てにそれを投射することで、噺家があたかも本当に蕎麦を食べているかのように見る/見えるというのが、ここでのプロジェクションです。

また、目の前にはモノマネ芸人のコロッケさんしかいないとわかっているけれど、コロッケさんのモノマネによって自分のなかで美川憲一さんに関する表象を再構成し、目の前にいるコロッケさんのモノマネにそれを投射することで、コロッケさんが本物の美川憲一さんよりも美川憲一であるかのように見る/見えるというのも同様です。

これらのプロジェクションは、噺家やモノマネ芸人の技量も重要です。上手な噺家や芸人であれば、鑑賞者の表象は再構成するまでもなく的確に喚起されます。鑑賞者が目の前の噺家や芸人にそれをうまく投射できたなら、落語やモノマネを存分に楽しむことができるでしょう。

それは、噺家やモノマネ芸人が情報の内容や配置といった状況を、仕草や道具立てや化粧や表情などで上手にコントロールしているからです。

そのように考えると、意識的なプロジェクションを他者に強要してもうまくいかない一方で、情報の内容や配置といった状況を制御できれば、他者に無意識的なプロジェクションをさせることは可能です。

たしかに、霊感商法やオレオレ詐欺、陰謀論や戦争時のプロパガンダなどは、他者がある意図をもって情報と状況をコントロールすることによって、主体が無意識のうちになんらかのプロジェクションをするように仕向け、こころと行動を操っているのだといえます。

イソップ寓話にある『北風と太陽』のように、旅人の上着を脱がせるには、強風でむりやり剥ぎとろうとしてもうまくいかないけれど、太陽で照らして暑がらせることで自分から脱ぐようになるというわけです。

この行為はプロジェクションとは関係がありませんが、他者が状況をコントロールすることで、他者の目的に向けて主体の能動的な行動を操っている例そのものです。

私たちは自分で思っているよりも、自らの意思のみで判断したり決定するような能動的な行動は、案外に少ないのかもしれません。

写真/shutterstock

イマジナリー・ネガティブ 認知科学で読み解く「こころ」の闇

久保 (川合) 南海子

イマジナリー・ネガティブ 認知科学で読み解く「こころ」の闇

2024年9月17日発売
1,012円(税込)
新書判/224ページ
ISBN: 978-4-08-721332-4
認知科学の概念「プロジェクション」とは、自分の内的世界を外部の事物に重ね合わせるこころの働きのことである。
プロジェクションには “推し”の存在に生きる意味を見出すようなポジティブな面がある一方で、霊感商法、オレオレ詐欺、陰謀論、ジェンダー規範など、他者によってこころを操られたり自分自身を無意識のうちに縛ったりすることでネガティブな問題を生じさせる面もある。
実際には起きていないことや存在しないものを想像して現実に投射できるがゆえに生まれる「イマジナリー・ネガティブ」を認知科学の視点で考察する一冊。

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