信長は何度も城を変えていた? 城を知れば人物像が見えてくる。名城を建てた武将たちの物語/武将、城を建てる①

『武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)第1回【全4回】 安土城、大坂城、名護屋城、熊本城、江戸城、松山城など、有名な城をつくったのは、戦国時代を戦い抜いた武将たちだった。城をつくった武将たちの知られざるエピソードや城づくりへのこだわり、どんな城をつくったかなど、人物から見る新たな見解を一冊にまとめました。お城がもっと身近に、そしてもっと面白くなる『武将、城を建てる』をご紹介します。

『武将、城を建てる』(河合敦/ポプラ社)

生涯に何度も城を変える

 織田信長の城というと、真っ先に安土城が思い浮かぶだろう。壮麗な天守(主)がそびえる総石垣づくりの大城郭だったといわれる。この安土城は、城郭史上、画期的なものであり、その後の城づくりに絶大な影響を与えた。何かどうスゴいのかに関しては、追々述べていこうと思うが、信長と城についてのユニークな特徴は、生涯に何度も居城を移したことだろう。

 領地が広がれば拠点を移すのは当然ではないかと考える方もいるかもしれないが、実はそうした大名は極めて珍しいのだ。武田信玄や上杉謙信、毛利元就は、当主になってから居城(拠点)を一度も変えていない。後北条氏などは二代氏綱から五代氏直まで小田原城を拠点にしてきた。つまり、信長の手法は大名として稀なのである。

 勝幡城で生まれた信長は、幼少期に父の信秀から那古野城を与えられた。もともと信秀(織田弾正忠家)は、尾張国守護代(尾張下四郡を支配する織田大和守家)の三奉行の一人に過ぎなかったが、やがて守護代や守護の斯波氏より力を持つようになった。そんな信秀から家督を継いだ信長は、守護代(大和守家)を滅ぼし、尾張国の守護所であった清須城を奪って拠点とした。さらに小牧山に居城を移転し、斎藤龍興を稲葉山城(井ノ口城)から追放して美濃一国を制圧すると、今度は斎藤氏の稲葉山城に移り住み、この地を岐阜と改名した。その後、畿内を制した信長は、水利の便の良い琵琶湖のほとりに安土城をつくった。勝幡→那古野→清須→小牧山→岐阜→安土と、まるで出世魚のように次々と居城を移していったのである。

 信長が生まれた勝幡城は、信長の祖父・信定が築城したといわれる。微高地に築かれた勝幡城は、江戸時代の絵図などから四方を二重の堀に囲まれた長方形の城館で、土塁を含めて東西六十六メートル、南北九十二メートルの規模と推定されている。公家の山科言継が勝幡城に来訪したさい、その素晴らしさに驚いた記録があり、織田氏が経済的に繁栄していたことがわかる。おそらくそれは、信長の父・信秀が津島を支配下においたからだろう。津島神社が鎮座する門前町・湊町であった津島は、商業先進地域として栄えていた。津島の川湊は、三宅川と連結する日光川によって勝幡城とつながっており、舟によって金銭や資財を津島から運び込むことは容易だった。

 十一、二歳の頃に信長は信秀から那古野城を任されたが、この城は現在の名古屋城二の丸付近に比定されている。もともと今川義元の弟・氏豊の居城だったが、信秀が奪い取ったのである。近年、周囲の発掘調査によって、今川氏時代から那古野城には武家屋敷や寺院が集まっており、それを信秀・信長父子がさらに発展させたことがわかってきている。

 太田牛一の記した『信長公記』によれば、那古野城主時代の信長は、朝夕に馬を乗りまわし、日中は弓や鉄砲の稽古、鷹狩りや水練に熱中するなど武芸に精を出し、部下と竹槍合戦や兵術稽古をするときは、その指揮をとったという。槍の長さを長くするなど武器の開発にも余念がなかった。

 一方で、茶筅のような髷をつくってカラフルな糸を巻き、袖をはずした胴衣と半袴姿で、腰には火打ち石の入った袋や瓢箪をぶらさげ、朱鞘の大刀をさすといった、奇天烈な恰好をしていた。しかも、人にもたれて肩にぶらさがって歩き、立ったまま餅や果物を食べるなど行儀が悪かったので、人びとは信長を「大うつけ」(大馬鹿者)と陰で呼んで馬鹿にした。傅役の平手政秀などは、その行く末を悲観するあまり自殺してしまったという。

清須城の改変

 天文二十年(一五五一)、父の信秀が四十二歳で急逝したため、十八歳の信長が家督を相続した。まだ尾張統一は完成しておらず、国内には両守護代家がかなりの力を持ち、隣国には斎藤氏(美濃)と今川氏(駿河・遠江)という強大な大名がいた。信長はすでに美濃の斎藤道三の娘(濃姫)と結婚して濃尾同盟を結んでいたものの、道三は主君を追放して一国を奪った梟雄。いつなん時、婿の信長に牙を剝くとも限らなかった。しかし、天文二十二年(一五五三)前後に正徳寺で会見して以降、信長は義父・道三の後援を得られるようになった。こうして国内で勢力を伸張させた信長は、弘治元年(一五五五)、尾張守護・斯波義統の子(義銀)を奉じて守護代(織田大和守家)信友を倒し、その居城である清須城を手に入れ、自分の居城としたのである。

 清須城は、尾張守護・斯波義重が十五世紀初めに守護所である下津城の別郭として五条川左岸に設けたもので、文明十年(一四七八)からは守護所をこの清須に移しており、以後、清須は尾張繁栄の中心地となっていた。ただ、清須城は信長の死後、次男の信雄によって大きく改修され、江戸時代になると城の城下町は家康の命で名古屋へ移されてしまった(清須越)。しかも城跡一帯が宅地化し、信雄時代の本丸(清洲公園)の堀や土塁跡ぐらいしかわからなくなっていた。しかし近年、発掘調査が進み、多くの遺物や遺構が見つかり、大型の方形居館跡なども出土するようになった。

 研究者の鈴木正貴氏は信長の清須城を前期清須城、信雄の清須城を後期清須城と分けたうえで、「前期清須城は、未解明な部分は多いが、方形居館群であることは間違いなく、足利将軍邸を模した守護館を中心とした城郭・城下町」(「清須城」村田修三監修・城郭談話会編『織豊系城郭とは何か その成果と課題』所収 サンライズ出版)だと論じている。ただ、「二重堀の居館」(前掲書)は「他国の守護館には見られない」(前掲書)ので、「尾張国に特有なもの」(前掲書)ではないかとする。とはいえ、新しい時代を画するような後の信長の城の特徴は見いだせないと述べている。

 研究者の中井均氏も、信長(織豊系)が那古野城から清須城へ移ったのは、「信友を滅ぼし、主家の居城に入城することにより守護代家に取って代わったことを示した」(中井均著『信長と家臣団の城』角川選書)のだと主張。その理由として、清須城の構造が「これまでの発掘調査では信長時代に大きく改修された痕跡が認められない。つまり従来の守護館的な構造を信長はほとんど手を加えることなく居城としていた」(前掲書)ことから、「信長は自らの独自の築城をおこなうのではなく、あくまでも守護所に居城することが重要」(前掲書)だと考えたのだという。

 鈴木・中井両氏はこのように、信長の前期清須城は中世の守護所のような二重堀で囲まれた方形居館だったと考えているわけだ。一方、研究者の千田嘉博氏は、清須城の中心部は近年発掘で見つかっている大型城館跡ではなく、その後、信長の次男・信雄が大改修した「近世清須城本丸周辺」(千田嘉博著『信長の城』岩波新書)ではないかと推察する。このように発掘が進んでいるものの、研究者の間では、清須城が昔ながらの守護館なのか否かの一致をみていない。そういった意味では、今後の研究の進展が待たれる城といえるわけだ。

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