大谷翔平フィーバーが孕む危険性。目にしない日はない「大谷翔平」という社会現象から、“私たち”を掘り下げる1冊【書評】

『大谷翔平の社会学』(内野宗治/扶桑社)

「大谷翔平」とは何なのか? 一人の野球選手という枠に収まらないのはわかるけれど、テレビでもネットでも街中でも、ニュースや広告にいたるまで今、彼を見ない日はない。

 アスリートとして驚異的な能力を発揮しているうえ、ビジュアルもキャラクターも愛される要素ばかりなので不思議はない(実際、私自身も応援している)。だが、果たして“それらだけ”が理由なのだろうか? これほどの“フィーバー”はもはや社会現象だ。となれば、その背景はただ一人のスポーツ選手の物語に収まらない。

 そんな今まさに起きている「大谷翔平」という社会現象を、いわばメタ認知して掘り下げたのが『大谷翔平の社会学』(内野宗治/扶桑社)だ。著者の内野宗治氏は元々コンサルタントで、現在は世界的スポーツマーケティング会社でリサーチ業務に携わるだけに、本質を捉えながら客観的に見渡すことに優れ、同書もユニークな切り口で綴られている。

 これまでも大谷翔平に関する書籍は多くあるが、本人にフォーカスしているものがほとんど。だが、大谷がいかにすごいかではなく、大谷のすごさにいかに私たちが反応しているのかという同書のような逆転の発想から読み解くと、渦中の日本人には見えない要因の数々が浮かび上がってくる。

「大谷ハラスメント」はスポーツ・ウォッシングか

 ネットでは「大谷ハラスメント」という言葉も生まれ、毎日のように「もっと他の選手(スポーツ)を扱うべき」「(ファッションとか)どうでもいいニュース!」「大谷で誤魔化すな」「もっと大切なニュースがあるだろう!」といった不満が投稿されている。一方のメディアも商売なので数字や利益になるからか、「大谷推し」は不可欠なのか収まる気配はない。

 ネットユーザーが反応するのも当然で、スポーツ・ウォッシングの様相を呈しているという側面もあるのだ。スポーツ・ウォッシングとは、スポーツの熱狂を利用して、為政者や組織がイメージ向上に利用したり、問題を隠蔽したりして世論を洗い流すことだが、経済の悪化が止まらず政治やメディアに対する不信が高まっている日本でも見事に当てはまる。

「パンとサーカス」は「B級グルメとスポーツ」に

 著者は、古代ローマ時代から揶揄されてきた「パンとサーカス」にもなぞらえる。つまり、国民は「パン=食糧」と「サーカス=娯楽」さえ与えておけば、満足して政治に無関心になるという批判的警句だ。「パンとサーカス」とは今の日本では「B級グルメとスポーツ」だろうと。さらに「政府とメディアは共犯関係」と指摘し、大谷フィーバーで大勢が思考停止になることに危機感を募らせる。

大谷を見ていれば「日本はすごい」と錯覚できるし、たとえ目先の生活が苦しくても、給料が上がらなくても、将来が不安でも、大谷の活躍を見ていれば忘れられる。それが束の間だとしても、世界を舞台に闘う大谷の姿に感動し「自分も頑張ろう」と思える。本当は社会に対して怒るべきことがあっても声を押し殺し、大谷の活躍に励まされながら苦しい日々を淡々と生きる……それこそが為政者たちが望む国民の姿だ。

大谷は「日本の誇り」の前後を考える

 もちろん大谷から元気をもらい、その活躍に心躍ることは素晴らしいことだ。著者も含め、多くの人が享受している喜びだ。それに大谷本人には何の非もない。ただ、今の大谷フィーバーが孕んでいるリスクや鑑みるべき背景は、大谷が規格外であるだけ広くて深い。同書にあるように、メジャーリーグに挑戦したアジア人選手たち(日本人選手も含む)の歴史一つを辿っても、差別問題だけでなく劇的な変化や差異に驚かされる。

 世界的スターになった大谷を追うことは、世界や歴史とかかわることに繋がるのだ。日本のニュースは「世界が大谷をどう評価したか?」は詳しく伝えるが、そのニュースに湧く私たち日本人がどう見られているかを伝えることはあまりない。

「日本の誇り」として大谷と自身を重ねるだけでなく、そう思う自身は世界でどう捉えられているのか。大谷フィーバーを考えることは、日本や自身のアイデンティティについて振り返ることであり、アメリカや近隣のアジア諸国に関して重大な気づきを得ることでもあるのだと思う。

文=松山ようこ

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