家出の心得/【吉澤嘉代子 エッセー連載】ルシファーの手紙 #5

 子供の頃、母に叱られて家出を決意したことがある。しかし、勢いよく階段を下りていざ玄関に出ると、いつもと違うきんと張り詰めた空気に怖気付いてしまった。一旦は祖母の部屋に逃げこんで遊んでいたものの、じきに母が恋しくなる。へそ曲がりの私は、スカーフを巻いて籠を持ち「忠実屋ヒロコです」と名乗ってリビングのドアを叩いた。近所の“忠実屋”というスーパーと、何となく素敵と思っていた“ヒロコ”という名前を合わせてみたのだ。母は幼い娘が繰り出した小芝居に笑いを堪えながら「あら? どなたですか?」と応戦した。「叔母のヒロコです。近くに来たものだから寄ってみたの。」と小芝居は続き、親子はいつの間にか仲直りしていたのである。

 家出を決行しないまま、大人になった私は家を出た。だからこそ憧れは今も疼く。一張羅のワンピースを纏い、おもちゃの鍵のネックレスを掛け、台所のお菓子や蜜柑をくすねて旅に出る。そこには暑さも寒さも、飢えも渇きもない。

「レコード・プレーヤー 電池式よ
弟のだけど メモを置いてきた
音楽 好き?
私の お気に入りよ 名付け親がくれたの
フランスから
私の愛読書 魔法を使う話が好き
地球の王国でも宇宙でもね
普段は 女の子のヒーローが好き
重いからこれだけなの 貸してあげる」
「あとは左利き用のハサミ 私 左利きだから
輪ゴム 予備の乾電池
歯ブラシ 知ってると思うけど 双眼鏡
髪は手グシでいいわ」映画『ムーンライズ・キングダム』(2012)監督:ウェス・アンダーソン、●●訳

 映画『ムーンライズ・キングダム』は少年少女の小さな冒険の物語。世界からはみ出したふたりの旅は刹那ゆえに永遠だ。青いアイシャドウに香水をつけて家出するスージー。駆け落ちというのに彼女は至って軽装で。サバイバルにはどう考えても不向きなワンピースがまぶしい。持ちものは弟から借りたポータブルレコードプレーヤー、数冊の本、子猫とキャットフード、そして双眼鏡。生き抜くためのアイテムを一つも持っていないのが最高に格好よい。必要なものではなく、大好きなものを連れて旅に出る。トランクの中には彼女たらしめる全てが詰まっているのだ。

 居場所のない彼らは孤独で共鳴する。ふたりだけの王国を追い求める切実さが美しい。スージーの双眼鏡は、寂しいときのための魔法だったのかもしれない。この不条理な子供の世界を生きるには、現実に万華鏡のようなからくりを仕掛けなければいけなかったのだ。当時の私にこんなに素敵な恋人がいたら本当に家出してしまっていただろう。

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