消化器内科の常勤医から芥川賞受賞作家に。朝比奈秋「<生きるとはなんぞや>医師としての答えの出ない疑問が、膨らんで物語になる」

「今回の受賞について、自分が嬉しいのはもちろんですが、家族も大喜びしています」(撮影:本社・武田裕介)
『サンショウウオの四十九日』で第171回芥川賞を受賞した朝比奈秋さん。消化器内科医の顔も持ち、現在は非常勤として週に1回、働きながら執筆を続けている。デビューから3年。何かにとりつかれたように、続々と小説を発表する彼の胸の内は(構成:山田真理 撮影:本社・武田裕介)

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医学部に進んだのは《勘違い》から

芥川賞をいただいた『サンショウウオの四十九日』は、「1つの体に2つの人格がいる」というイメージが降りてきて書き始めました。ベトちゃんドクちゃんで知られる結合双生児ですが、小説に書いた姉妹は見た目が完全に一人の人間。そんな症例はまだどこにもありません。

彼女らの人生を通して、自分だけの記憶や気持ちというものは本当に存在するのだろうか、誰しも、他人が見聞きしたことを自分の記憶と勘違いし、こんがらがってくっついたまま生きているんじゃないか――。そんな問いに、自分なりの答えらしきものが見つかる瞬間が、僕にとっては大切なのです。

今回の受賞について、自分が嬉しいのはもちろんですが、家族も大喜びしています。両親、姉、祖父母までがてんやわんやのお祭り騒ぎ。8月下旬に行われた贈呈式には、みんなで駆けつけてくれました。

ただ、みんな単純にイベントとして楽しんでいるだけで、小説をちゃんと読んでいるかは不明です。なぜなら、肝心の作品の感想を母以外は誰も言ってこないから(笑)。そもそも普段から小説を好んで読むような人は、僕の周りにほとんどいません。

医者になったのは僕と姉だけですが、両親をはじめ親族はほとんどが理系です。幼い頃から、家にはエンターテインメント系の小説は多少あっても、いわゆる純文学は一冊もなかった。

母親に絵本の読み聞かせはしてもらいましたし、幼稚園、小学校では物語に触れる機会もありました。でも、図鑑などのほうが圧倒的に好きで、中学・高校時代は科学雑誌の『ニュートン』や、講談社ブルーバックスの入門シリーズをたくさん読んだ記憶があります。

一方で、哲学書も少しかじっていました。というのも、昔から僕は「人間って何だろう」「死ぬとはどういうことなのか」という、答えの出ない問いを頭のなかで繰り返し考えるような子どもだったんです。だから、本当は科学技術に興味があったのではなかった。でも、そのことに気づいたのはかなり後になってのことでした。

実は、医学部に進学を決めたのは、「命とは?」「体とは?」といった疑問を持つ人が進む学部だ、と勘違いしたからなんです。大学で勉強を始めてから2、3年で、「僕は別に人体のメカニズムを知りたかったわけやない」と気づいてしまった(笑)。

とはいえ、哲学科に転部して論文を書きたいわけではなく、ほかにやりたいこともなく……。両親も、「病気や怪我はいつの時代もあるものだから、医者は食いっぱぐれのない仕事やで」と応援してくれていたので、そのまま医師免許を取得することにしました。

卒業後は、病院で働きながら自分の専門にしたい診療科を決めるのですが、手先を動かすのが好きだったので、デスクワークの多い普通の内科じゃないほうがいいと思っていました。ただ、僕は共同作業が壊滅的に苦手で。

外科はかなり体育会系の世界で、当時は新人が手術中に理不尽な理由で叱られることが多かった。そういうときに、「すみません、気をつけます!」と言ってしまえばいいものを、僕は「なんで怒られなあかんねん」とすぐに顔に出てしまうんです。それで手術室の空気がどんよりしてしまう。自分に合ってないとわかって、外科は選びませんでした。

そこで見つけたのが、消化器内科です。主な仕事は内視鏡手術で、医師一人に看護師一人の少人数で行うのが基本。手先を動かせて、自分のペースでできるものを見つけられてよかった。かなり性に合っていると思います。

卒業後は、大阪市内の病院に勤めました。数年おきに各地の病院へ移っていくサイクル。救急病院勤務だったときは、一睡もできないまま2日連続で出勤するなど、かなりハードな働き方だった時期もあります。

このときばかりは、もちろん内視鏡だけやっていればいいというわけではなく、たくさんの人の生き死にと直接かかわりました。そこで、もともと抱いていた「生きるとはなんぞや」という疑問に、真正面から向き合わざるをえなくなった。小説を書き始めたのは30代半ばのこの頃でした。

小説を書くために勤務先も辞めて

ある日、医学論文の執筆中にふと頭に物語のイメージが浮かんできたんです。舞台はかなり昔。とある偉いお坊さんが、山の中で出会った木こりの姿に見とれる、という場面から始まる、寓話のようなものでした。

戸惑いながらパソコンに打ち込み始めたら、原稿用紙400枚分書いても終わらない。というのも、宗教上の難解な問題にぶち当たってしまったからです。八方ふさがりになり、未完のまま今もパソコンに眠っています。

完成を諦めた後も次々と物語が浮かんで、お坊さんの話とは別に100枚ほどの短篇小説が2つ書き上がりました。せっかくなので誰かに読んでもらいたいと思ったのですが、いかんせん小説を読むような人は周りに誰もいない(笑)。そこで、小説の新人賞に応募してみようと思い立ったのです。締切日が近く、枚数の規定が合ったものを探して見つけた、純文学の賞に応募しました。

それまで僕は、純文学とエンタメ小説の区別もついていなかった。それで、応募した後に東京の大きな書店に行き、純文学系とエンタメ系の小説を数冊ずつ買って読み比べてみたんです。

純文学で買ったのは、田中慎弥さんの『共喰い』と、西村賢太さんの『苦役列車』。偶然にも、ともに芥川賞受賞作でした。純文学というと教科書に載るような古典しか知らなかったので、「現代を描いてこんなに読ませる作品があるんや!」と衝撃を受けたんです。

ちなみにエンタメ系のほうは、なにを読んだか覚えていなくて……。たしかミステリー小説だったと思います。面白く読んだはずなのに、後に残るような衝撃は受けなかったということでしょうか。

プロの作家になりたいとも、なれるとも思っていなかったのですが、最初に応募した作品が三次選考まで残ったので驚きました。受賞には至らなかったものの、倍率1000倍のなかで数十人に残ったということは、なにかしら意味があるのではないかと感じて。

ただ、やはり「面白い小説を書きたい」「作家になりたい」という思いはなく、ただ次から次へ浮かんでくる物語を文字にしていくだけでした。

書く時間のために日常生活が圧迫され、ついには救急患者の診察中にも、執筆中の小説の続きが頭に巡っていることに気づいてゾッとして。このままでは医療事故を起こしてしまうと思い、勤めていた病院は辞めざるをえなくなりました。

それからは、非常勤医師として週に数日働きながら、ほかの時間をすべて使ってひたすら小説を書く日々。2021年に林芙美子文学賞を受賞してデビューを果たす前の数ヵ月は、非常勤さえ辞めて完全な無職でしたね。

「生活のほとんどを書くことに注いでいるんやから、せめてプロくらいならせてくれ」という切迫した思いで書いた作品でデビューすることができたのです。

後編へつづく

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