芥川賞受賞『バリ山行』作者・松永K三蔵さんが、日常のすぐ横にある「死の可能性」を描いた理由。「巨大なシステムや資本の前に個人は非力だけど…」《インタビュー》
『バリ山行(さんこう)』(講談社)で第171回芥川賞を受賞された松永K三蔵さん。芥川賞発表から約4カ月、少し落ち着いてきたところで、あらためて作品についてお話をうかがった。
(取材・文=荒井理恵)
人は自分の問題をザックと一緒に背負って山にやってくる
――芥川賞受賞の反応はいかがですか?
松永K三蔵さん(以下、松永):ありがたいことにいろいろエッセイのお話をいただいたり、インタビューをしていただいたり、受賞は7月のことだったんですが遥か昔のような気がします。生活はあまり変わらないですね。建築関係で仕事をしていますが、会社の人は気がついてないみたいですし。
――お住まいは西宮で物語の舞台の六甲山の近くですね。ご自身も登られるそうで。
松永:そうですね。4、5年前くらいから登り始めました。体を動かすのは好きなんで、それまではロードバイクに乗ってましたが、ちょっとメンテが面倒くさくなってきて。本当に趣味で登ってる感じです。
――山登りの描写がすごくリアルで、一緒に登っているような感じでした。
松永:小説には「バリ」(注:通常の登山ルートではない、道なき道を自分で切り開いて登山する「バリエーション登山」)のことを書きましたが、自分は破線ルートぐらいは行きますけど、あまり危ないことはしてません。いろいろネットで調べたり山関係に詳しい友人に話を聞いたりはしましたが、ただ山を登る本質的な部分の描写は自分で山を歩いて得た感触なんかを生かして意識して書きましたね。
――この本は「純文山岳小説」とあります。山岳小説というとヒマラヤとか日本アルプスとか高い頂が舞台になるイメージがありますが、身近な低山で人間をきっちり描いているのが新鮮でした。
松永:確かにいわゆる山岳小説というのは、偉大なる自然vs.人間という構図で描かることが多いでしょうけど、そういった作品の中で自然に挑戦する人ってやっぱり人間的に浮世離れしたというか、ある種の超人が多いんですよね。僕の小説に出てくるのはみんな普通のサラリーマンで、何も特別なところはないんだけれども、普通の人が自然(山)と対峙した時に、その人が抱える身近な問題と向き合わざるを得なくなる。なんというか、自分の問題をザックと一緒に背負って山にやってくる感じがあって、実はそういう方がリアルじゃないかなと。
――確かに。物語の中でも自然の中で開放された感じでいながら、みんな仕事の話をしてますもんね。職場仲間と登ったら、あるあるだと思います。
松永:たぶん本当に登山したことのある方はわかると思いますけど、今日は仕事のことはちょっと置いといてって思うのに、追いかけてくるんですよね。
――しかもループしたりしますよね。
松永:そうですね。確かに考えて何か解決するわけでもないんですけど、自分も山に登りながら、仕事のこととか小説のこととかいろいろ考えて、堂々巡りで…。それでもなんか気づきも出てきたりする。そもそも登山って、仲間といたって一人の部分もあるし、ある程度生活の音を離れるから「自分自身と対峙する」っていう感覚が味わえるんです。それってすごく文学的な行為だし、「これは小説になる」って思いました。実は僕は山岳小説っていうのをほとんど読んだことがなくて、今回も山岳小説を書いたつもりはなくて、自分自身とは、人間とは何かっていうところをあぶり出す物語として書いたので、あくまで山はそのツールなんです。
「バリ」をする妻鹿(めが)が象徴するもの
――物語では「バリ」をする妻鹿と、普通の登山道を行く主人公の波多をはじめとする同僚たちが対峙する存在として出てきます。妻鹿と波多は同じ会社で働くベテラン社員と後輩社員ですが、社内で孤立しがちな妻鹿に対し、波多は苦手な会社付き合いを克服しようとする中途入社社員。意図的に対峙させたのですか?
松永:異物としての妻鹿、どこにでもいるような波多、対峙は自然に発生しました。意図的で言えば、「バリ」という行為自体がアウトロー的で、当然このご時世では「山を舐めるな」とかいろいろ批判されたりもするものなんです。この小説では、妻鹿や波多と同じ会社で登山部メンバーの松浦が批判をする側の象徴として出てきますが、そういうふうに「枠」というものを提示しないと、「枠から外れる」っていうことが生きてこないので、そのような対立軸は必要だと思いましたね。
――妻鹿という存在はすごく象徴的ですね。「登山ルート」ってちょっと人生に繋がるというか、決まった道を歩むことを選んでいると、それを外れることへの憧れがくすぐられます。冴えない中年男性というのがまたいいですし。
松永:そんなキャラは本当にいるのかって周りを見ると、冴えなくて目立たないけれど、何かやってる変な人、ズレていく人っているんですよね。SNSで感想をいただいたりするんですが、「自分は妻鹿だな」っていう人がいたり、「妻鹿じゃないけどわかる」っていう人がいたり。働いている方の8割以上がサラリーマンだと思うんですが、組織や、いろんな関係の中で折り合って生きてる人が抱く、独力でやっていく人に対する憧れと反発なんだろうなと。
――作者としては、妻鹿は何を思ってバリをしていたと思いますか?
松永:いろいろ考えるんですが、実は僕もわからないんですよね。妻鹿自身「楽しいから」と言ってましたけど、もしかすると本当に何も考えてなくて、ちょっとイッちゃってるタイプなのかもしれないし、そういう人間の不思議さみたいなのも面白いなと思うんです。あのラストをどう捉えるかは人それぞれですが、それでも自分自身のやり方を貫き通す妻鹿の力強さにある種のハッピーエンド的なものを見る人もいれば、逆に狂気に近い見方もあるでしょうし…ただ、やっぱり妻鹿さんは登っててほしいって気持ちもあります。
――そうですね。登っててほしいなと思います。
松永:僕自身はグチグチ考える方なんで、どっちかといえば登山ルートを行く波多寄りで。だからこそ妻鹿さんみたいな人に憧れるし、彼の持つ彼岸の感覚みたいなものに嫉妬するし反発もする。低山だって下手したら死にますからね。
――身近な山でも命ギリギリみたいなことって十分あり得るし、「生」の実感が得られることをあらためて感じましたね。
松永:六甲山って本当に街と接していて、登山口も至る所にあります。それこそ新幹線の新神戸駅を降りたら即登山口があるくらい、街と山が隣接してるんです。日常を一枚めくれば、やっぱり非日常というか簡単に死ぬ危険がある、そういうリアリティがあるんです。だから軸はずっと日常に置いたままで、でも山に入ると自然に死に直面するっていう、そのスライド感も描きたかった。ちょっと位相を変えるだけで違うものが見えてくるってすごくわかりやすく教えてくれますからね。
一方で六甲山って上に道路が東西に走っていて、ホテルもあればレストランや遊ぶ施設もあって、もう街なんですよ。だからいくら妻鹿がその中で命がけでどうのこうのやったって、所詮は街中でしかないわけです。そこが六甲山の皮肉なところなんですが、そういう「街」であったり「システム」であったり、ルールの強固さみたいなところは意図的に書きましたね。
――確かに、神の視点じゃないですが、街の仕組みという上位の概念があって、それは絶対に破れない…。
松永:破れないんですよね、結局「バリ」とかなんだとか言ってみたところでね。物語の中では、大手の元請けの道を選択した中小企業(注:主人公たちの勤める会社)の行方がどうなるか明かされてませんけど、なんだかんだで、元請け会社からは再び発注が入り、「やっぱり資本よな」という台詞も出てきます。結局、個人の力の限界というか、寄らば大樹の陰というか、その虚しさや個人の頼りなさの中で実は我々は生きているわけですよね。それを打ち破るヒーローものならカッコよくて爽快かもしれないけど、そうじゃない。所詮は巨大なシステムや資本の前には個人の成し得る力って限られている。でも、「それでも生きていく」っていう。
――それが生きるっていうリアリティですよね。なんかもう悔しいですけど。
松永:大人はみんな知ってるんですよ。「そこは破れないな」っていうことを。勝てないということを。でも、その虚しさを無視するんじゃなくて、その虚しさを知りながら、やる。それでもやる。だから妻鹿さんにはやっていて欲しい。妻鹿さんの言う、やるしかないんだよっていうところですね。
愚かしくも果敢に不条理と戦う人を描きたい
――お話を聞きながらいろいろ深読みできる作品だと実感しています。あらためて著者としてはどんな読者に届けたいと思われますか?
松永:実は僕は個人的に「オモロイ純文運動」というのを展開しているので、普段あんまり本を読まない人に届いてほしいと思っていますね。本なんて面白くないでしょうって方も、やっぱりいろいろ社会の中で折り合って生きているでしょうから、この小説に共感していただける方もいると思うんですよね。ぐっと奥歯を食いしばってやっている人が、もしかしたら妻鹿に何かを感じていただけるかもしれないですし。
――「オモロイ純文運動」ってどんなことをやってるんですか?
松永:運動と言っても自分がただ書くだけなんですけどね。純文学っていうのはどうしても難しかったり読みにくかったり、物語性が乏しかったりするんですが、純文学にもシンプルに「読んで面白い」っていう作品もあることを伝えていきたいんです。もちろん難解な純文学の「おもしろさ」もありますが、書店がどんどん閉店し、本を読まない人が多くなっている中で、危機感があります。多くの人が貪るようにスマホで動画を見たり、ゲームをしたりしているのは、やっぱりそれがシンプルに面白いからで、だったら小説も面白い、純文学も面白いということを伝えていきたい。
――これからどんなものを書いていきたいとか、何か思いはありますか?
松永:普通に生活している人の不条理を書きたいと思っています。世界というのは不条理にあふれていますから、その中で「生きてる」ってことは「抗っている」ということ。とにかく必死に抵抗をして生きてる人を書きたいですね。一口に不条理といっても深淵なものからバカバカしいものまで、それこそ会社員生活を送っていると社内政治に付き合わされたり、トップがなんかにハマっちゃって、自分の生活が振り回されたり、いろいろありますよね。それでもやっぱり、やっていく。愚かしくも果敢に戦っている人は美しいので、それを書いていきたい。
――ちなみに12月に新刊も出るそうですね。
松永:そうなんです。デビュー作の『カメオ』っていう小説なんですけど、ある意味それも不条理小説です。仕事を押し付けられ、犬を押し付けられ、押し付けられたものにどう対応していくのかの物語ですね。
――そうそう、不条理小説を楽しく読むのに関西弁もポイントだと思いました。
松永:それはあるかもしれないですね。不条理なやりとりにちょっと人間味というかユーモアが出るというか。新刊にも関西弁のクレーマーが出てきますが、喋りが面白いです。なかなか愛すべき男ですよ。
11/15 06:30
ダ・ヴィンチWeb