大正ロマンの代名詞・竹久夢二の見ていた東京を追体験。日本橋・三越、銀座・歌舞伎座…「竹久夢二が描いた大正時代の東京と女性たち」【生誕140年】
今年、生誕140年を迎えた画家・竹久夢二。彼の描いた美人画やイラストは東京のハイカラ文化をリードし、大正ロマンの代名詞となりました。竹久夢二美術館の学芸員・石川桂子さんのガイドとともに、夢二の見ていた東京の街を追体験してみませんか(構成=篠藤ゆり 画像提供=竹久夢二美術館)
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流行の最先端はスケッチから生まれた
画家・詩人として知られる竹久夢二は16歳で岡山から上京し、49歳11ヵ月で亡くなるまで東京で暮らしました。その間、長期で旅に出たり、晩年の2年数ヵ月は外遊したりもしましたが、約30年、東京を拠点に活動しています。
上京以来引っ越しを繰り返し、最後は当時郊外だった世田谷に居を構えました。晩年も、毎日のように銀座に出かけていたそうです。
夢二が上京したのは明治時代後半。その頃の東京には、まだ江戸の風情が残っていました。夢二が頻繁に街に出かけてスケッチをしたなかには、京橋大根河岸(だいこんがし)市場や、日本橋に蔵がたくさん並んでいる魚河岸の風景も見られます。
【日本橋】三越本店
しかし大正12(1923)年、関東大震災で東京は壊滅的な被害を受けました。復興後、街はどんどん近代化し、モダン都市に生まれ変わります。
夢二は、そんな東京の変遷を経験しました。東京という街に強い愛着を感じていたようで、震災後に故郷の両親へ送った手紙には、「余は東京を故郷と定め申し候」という言葉も残されています。
恋多き夢二は、実在の女性をモデルにして制作を手掛けることもありましたが、多くは「理想の女性」を描いていました。作品を追っていくと、抒情的な大正ロマン風の女性だけでなく、洋装のモダンガールも登場します。
今でいう商業デザインの分野でも活躍し、広告の絵なども描いているので、新しい風俗にも敏感だったのでしょう。
日比谷公園や日本橋三越本店によく足を運び、見かけた女性をスケッチしたことも。彼のスケッチは見たままを写し取るのではなく、その人の印象や仕草に重点を置いていました。
【お茶の水】ニコライ堂
また、夢二は、当時珍しかった海外のファッション誌も参考にしていたようです。流行の最先端となった夢二の絵やデザインは、女性たちの憧れの的に。
三越に絵を持ちこみ、「これと同じように着物を染めてほしい」とオーダーする人もいたとか。夢二がデザインする雑貨を販売していた「港屋絵草紙店」には、女学生や、プレゼントを買い求める男性も多く訪れました。
【銀座】歌舞伎座
「物心ついてからずっと東京に住んだ私にとっては、一片の東京地図は、実に有機的な私の人文科学史です」
<竹久夢二「東京地図」より(『婦人公論』)1924年5月号>
夢二は、元妻の岸他万喜(たまき)(写真右)と日本橋に「港屋絵草紙店」を開業。夢二がデザインする品々を販売した。文化人も訪れるサロンのような場だったという。夢二のイラストをモチーフにした雑貨は、竹久夢二美術館で今も購入できる。
【日本橋】三越本店
【銀座】銀座千疋屋
ゆかりの名店でかつての風景を追体験
彼の日記には、訪れた店や名所などについての記述がよく出てきます。飲食店では味だけでなく、店の佇まいや調度品などにも注目していたようです。
千代紙の「菊寿堂いせ辰」や、和紙製品の老舗「榛原(はいばら)」で商品のデザインをしたり、銀座千疋屋の広報誌『fruit』や日本橋三越が手掛けていた雑誌『三越』の表紙絵を描くなど、名だたる名店と仕事のつきあいがありました。
【谷中】菊寿堂いせ辰
【銀座】山野楽器
そんな夢二の見ていた風景を追体験しながら、東京を楽しむことができるガイドブック『夢二の東京さんぽ手帖』をこのたび上梓します。
当時の写真や絵葉書を多数収録し、夢二の日記や文章を読み解くことで、令和と大正ロマンの時代を結びました。本書を参考にしながらゆかりの名店や街に足を運び、夢二目線で東京を歩いてみてはいかがでしょうか。
09/26 12:30
婦人公論.jp