『光る君へ』の紫式部は当時<極めて遅い>26歳前後で藤原宣孝と結婚。婚期が遅れた原因は性格や結婚観などでなく、単に…【2024年上半期BEST】

(写真提供:Photo AC)
2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年06月25日)


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現在放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』。吉高由里子さん演じる主人公・紫式部を中心としてさまざまな人物が登場しますが、『光る君へ』の時代考証を務める倉本一宏・国際日本文化研究センター名誉教授いわく「『源氏物語』がなければ道長の栄華もなかった」とのこと。倉本先生の著書『紫式部と藤原道長』をもとに紫式部と藤原道長の生涯を辿ります。

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【書影】古記録で読み解く平安時代のリアル。倉本一宏『紫式部と藤原道長』

紫式部の上京

結婚の決心がついたのであろう、紫式部は長徳3年の年末か翌長徳4年(998)の春、父を残して単身、都へ帰った。

鹿蒜(かえる)山から呼坂(よびさか)を越え、今度は琵琶湖東岸を舟で進み、雪の伊吹(いぶき)山を見ながら磯の浜を経て、ふたたび打出浜(うちいでのはま)に着いた。

「都の方へ帰るというので、鹿蒜山を越えた時に、呼坂という所のとても難儀な険しい道で、輿(こし)もかき難じているのを、恐ろしいと思っていると、猿が木々の葉の中から、たいそうたくさん出て来たので、」といって詠んだ歌は、

ましもなほ 遠方人(をちかたびと)の 声かはせ われ越しわぶる たにの呼坂
(猿よ、お前もやはり遠方人として声をかけ合っておくれ。私の越えあぐねているこの谷の呼坂で)

というものであった。

猿の声など、はじめて聞いたことであろう。伊吹山を見ては、

名に高き 越(こし)の白山(しらやま) ゆきなれて 伊吹の嶽(たけ)を なにとこそ見ね
(名高い越の国の白山へ行き、その雪を見馴<な>れたので、伊吹山の雪など何ほどのものとも思われないことだ)

と詠んでいる。いかにも自分は人の知らぬ特別の経験を積んだ者だといわんばかりであるとのことである(清水好子『紫式部』)。

紫式部が思い出しているのは?

往路の歌の間に紛れ込んだ錯簡(さっかん)であろうが、琵琶湖東岸の磯の浜(現:滋賀県米原市磯)で、磯の陰で鳴いている鶴を見ては、

磯がくれ おなじ心に たづぞ鳴く なに思ひ出づる 人やたれぞも
(磯の浜のものかげで、私と同じ気持ちで鶴が鳴いている。一体何を思い出しているのかしら。思い出しているのは誰なのかしら)

と詠んでいる。紫式部が思い出しているのは、もはや越前に残してきた為時ではなく、都で待っている宣孝だったのであろうか。

長徳4年の夏、宣孝から、「親しく話すようになって、2人は互いに心がわかったでしょう。この上は、同じことなら、隔てをおかない仲となりたいものです」という歌が届けられ、それに対して、

へだてじと ならひしほどに 夏衣 薄き心を まづ知られぬる
(私は心の隔てをもたないようにと思っていつもお返事をしていますのに、「へだてぬちぎり」をもちたいとおっしゃるお言葉で、まずあなたのお心の薄さがわかったことです)

と返してなじっているのも、正式な結婚に向けた手続きといったところであろうか。

なお、この年の8月27日、宣孝は山城守(やましろのかみ)を兼任することになった(『権記』)。

宣孝との結婚

そして長徳4年(998)の冬に、紫式部は宣孝と結婚した。

これが越前下向前からの予定の行動なのか、それとも田舎暮らしに飽きた末の行動なのかはわからないが、私にはどうも、為時の着任が一段落したら京に帰って宣孝と結婚するのが既定の行動だった気がしてならない。

(写真提供:Photo AC)

紫式部は当時、26歳前後と考えられるが、これは当時としてはきわめて遅い初婚で、2度目の結婚という説もあるくらいである。

ここまで婚期が遅れたのは、なにも紫式部の内省的な性格や結婚観や性的嗜好によるものではない。

紫式部の適齢期に為時が無官であったためである。

当時は男性が婿として妻の実家に入る結婚形態であったから、政治的にはもちろん、経済的にも後見(こうけん)の期待できない為時の婿になろうなどという男は、現われるはずがないのであった。

紫式部としても、装束や食事や牛車の用意もできない我が家に婿を迎える気にはなれなかったであろう。

20歳前後の年齢差

宣孝とは20歳前後の年齢差があったが、これは当時としては、女性が嫡妻(ちゃくさい)でない場合は、あり得ない話ではなかった。

宣孝は紫式部と同居しておらず、いずれかの旧妻(嫡妻)の許で暮らしているので、紫式部は嫡妻の地位を手に入れたわけではなかった。

いったいに仮名文学を記した女性は、『蜻蛉日記』の藤原道綱母をはじめ、嫡妻でない人ばかりなのである。

いつともしれぬ夫の訪れを待つ女性の生活(を描いた文学作品)を、「当時は妻問婚だった」などと平安貴族一般の結婚形態と勘違いすることは、厳に慎しむべきであろう(夫と同居する嫡妻の描いた日常など、面白くもないであろう)。

※本稿は、『紫式部と藤原道長』(講談社)の一部を再編集したものです。

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