ブレイディみかこ「人生の95%は嫌で儘ならないことのオンパレード。でも、残りの5%は…?エッセイが<時代や社会を見つめる>道具になれば」

ブレイディみかこさん(撮影◎Shu Tomioka)

新刊『転がる珠玉のように』著者のブレイディみかこさん(撮影◎Shu Tomioka)
累計100万部を超えるベストセラーとなった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』シリーズをはじめ、労働者階級の目線から世界を見つめて綴られた著書の数々が大人気のブレイディみかこさん。このたび待望の新刊『転がる珠玉のように』が発売された。収録されているのは、2021年4月から2024年3月まで『婦人公論』と「婦人公論.jp」で連載されたエッセイだ。イギリス在住の著者が日常を通して日本の女性たちに伝えたいこととは? (構成◎丸山あかね 撮影◎Shu Tomioka)

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【写真】ブレイディさん「バラバラの『個』の集合体が家族だという価値観です」

タイトルに潜む想いとは?

「転がる珠玉のように」の連載のご依頼をいただいた当初は、貧困家庭に育った私の生い立ちや思春期、青春時代、今に至るまでの経緯をテーマにということでした。でも60年近く生きていると昔のことなんか詳しく覚えていないわけです(笑)。記憶を辿ればいろいろ思い出す出来事はありますけれど、前後のつながりやその時々に自分が何を感じたかは曖昧。曖昧なものを文章にするなら小説にするほうがいい、つまり自叙伝的なものはエッセイには向かないと考えました。

そこで日常を描くことにしたのですが、女性誌で、私みたいな無名人の日々の他愛ない話を知りたい人なんているのかという話で。セレブの書くエッセイが面白いのはわかるんですよ。著名な人たちとの交友関係やエピソード、素敵な暮らしぶりなどが垣間見えれば、それは面白いでしょうし、特にファンの方々は知りたいでしょう。一方、私の毎日は極めて地味。当然のことながら出てくるのもフツーの人ばっかりだし……。でも待てよ、私の物書きとしての原点はブログに綴っていた日常の中のアレコレだったじゃないかと。それが『花の命はノー・フューチャー』というデビュー作ですが。そーだ、そうだったというところから、フツーの人たちの日常を綴るのは、セレブエッセイのアンチテーゼ的になって面白いかもしれないと思いました。

実はタイトルにある「珠玉」って言葉がこだわりポイントなんです。ある時、ネットの記事を読んでいて、「珠玉」は大きなものや堂々としたものを賛辞するのには使えないことを知りました。日常に関して言えば「珠玉」という美しい響きの言葉は地味に暮らす人だけのもの。つまり華々しい人の暮らしを珠玉とは呼べないんだと。これってなかなかに痛快だなと。(笑)

人生の95%は儘ならないけれど

私が初めてイギリスに来たのは20歳の時、知り合いは一人もいませんでした。持ち金はほとんどないし、仕事を見つけないと野垂れ死ぬような状況だったので、ガシガシ仕事を探して働きはじめました。やがてアイルランド人と結婚して、ブログを始めたのは30代の後半。当時はドロドロの中にいてドロドロを抽出して書いていたというか、若くて尖っていたし、社会に対しても批判的でシニカルだった。

でも20年経った今の私が書くエッセイは、同じように日常を描いてはいてもテイストが異なります。歳を重ねるごとに身辺に起きることやテーマが変化するのはもちろん、自分で言うのもなんですが、大人になって、以前より温和になりました(笑)。もしも『花の命は~』を読んでくださった方がいたら、比較していただくと面白いかもしれません。若い頃は「人生には小さな喜びが詰まってる」なんて言う人がいたら、綺麗ごとだ、偽善者だと斬り捨てたでしょうね。でも今は、そういうこともあるのかなと思う瞬間もある。変われば変わるもんですよね。

人づきあいにしても、相手をどういう角度から見るかによって状況が変わってきますよね。周囲にいる人の欺瞞的な部分だけを浮き彫りにして、「友達ってどうなの?」「家族なんていらないよ」とエッセイの中で批判し、毒づくこともできるのですが、人は誰しも両義的なので、醜いことと同様に「佳きこと」が起こるのも事実なのだから、毒づくために綺麗な部分を排除するのも嘘だなと。要は玉石混交なわけで、そういうものだよね、人の有害な部分だけ暴いていても本当のことってわけじゃないよねって、この本はそういうエッセイ集になったと思います。

「人生いろいろ」なんて言うと演歌みたいでベタですけど、実際、生きているといろいろなことが起こります。しかも私が思うには人生の95%は不愉快なこと、嫌なこと、面倒くさいこと、辛いこと、悲しいことで、人生は儘ならないことのオンパレード。でも、だからこそ5%の「佳きこと」に胸を打たれるのでしょう。そういう瞬間があるから人間って生きていけるのだなと思うのです。

『転がる珠玉のように 』(著:ブレイディみかこ/中央公論新社)

『転がる珠玉のように 』(著:ブレイディみかこ/中央公論新社)

時代の記録として残したい

『婦人公論』でエッセイの連載を始めたのは、コロナは一向に収まる気配がないとドンヨリしていた最中でしたので、前半は鬱々とした空気感が漂っています。でもそれはそれでリアルな日常でしたから、日記みたいに記録しておきたいという気持ちがありました。私たちは何でもすぐに忘れてしまうけれど、コロナは怖かったというだけで通り過ぎてしまってはいけないと思うのです。たとえば私は、身内が次々と重病になったこともありましたが、いつ何が起こるのかわからない世の中に生きているんだと思い知らされ、フツーの毎日がどんなにありがたいものだったのか実感しました。とは言え、イギリスでのコロナ体験と日本のそれには温度差があった気もします。

もちろん日本も大変だったと思います。でも日本では緊急事態宣言が発令されたものの外出制限は要請で、罰則を伴うロックダウンではありませんでしたよね。イギリスは厳格なロックダウン政策が発出され、公園でベンチに座っているだけでも警察官に怒られるという日々が続きました。あの時の閉塞感による辛さを日本の人たちに理解してもらうのは難しいように思います。特に私は外で人と会って会話を交わすのが好きなので、誰とも会えない、話せない日々がキツくて、実際にメンタルが病みかけました。リモートを通じて人と話すことはできましたけど、それだけになるのはやっぱり違うと思った……。「自分がコロナ禍を忘れていたことを思い出す」ための本になっていればいいと思います。

ロックダウンが解除されてからもコロナ禍の影響は尾を引きました。連載中にウクライナ戦争も始まったり、混乱した時期でした。海外からの郵便が届かないとか。それから物価高で貧困が広がって。イギリスの地べたで暮らす人たちの生活ぶりを通して、動乱の時代を生きる人たちの危機感や行動力が伝わったらとも思います。日本はよくも悪くも、少し遅れてイギリスを追っているような気がします。イギリスでの生活費危機や地域、教育問題などが時間差でやがて日本にも起こる。だとすればイギリスはどうだったのか参考にしない手はありませんよね。

日本の最近の現象を見ていると「Get a life!」と言いたくなる

別に私は日本を批判する目的でエッセイを書いていたわけではないのですが、イギリスではこうだと記すと、どうしても日本とのコントラストが明確になってしまうということがありまして……。たとえばコロナ禍の中で外にいるとイギリスでは警察官に怒られたけど、一般の人から咎められることはなかった。そしたら日本では自粛警察とか言って一般市民が一般市民を咎める事象が報道されていて。あるいは日本では著名人の不倫話が異常な盛り上がりで、政府の不祥事とかよりよっぽど関心が高いという……。

イギリスに「Get a life!」という言葉があって、「おまえ暇だな、自分の人生を生きろよ!」って意味なんですけど、実のところ私はこういう日本の現象を見ていると、「Get a life!」と言いたくなることがあるんですよ(笑)。緊迫感のなさとか切実感のなさが生み出す現象かなという気がします。

イギリスでは、国民の半数以上が「5年から10年以内に次の世界大戦が起こる可能性がある」と答えたという世論調査結果があり、多くの人が今の時代に危機感を覚えています。最近、総選挙があって政権交代がありましたけど、そういう大きな変化が起きるのも、そのせいだと思います。その反面、政府がどうの、国がどうのと言っていても、為政者はたいしたことはしてくれないという深い諦めもイギリスの人たちにはある。だからコロナ禍の中でも市民が助け合う運動が自発的に立ち上がるわけです。政府の重箱の隅は激しくつついても、自分たちの重箱の隅をつつき合ったりはしない。何かあったら横の繋がりで連帯して闘わなければいけないということを知っているからでしょう。イギリスのすべてがいいというわけじゃないのですが、日本の人たちは、緊迫感と横の連帯で立ち上がる気風が弱いと思います。この時代に、ホントにそれでいいのか? とは感じます。

家族との距離感について思うこと

本書では家族についても書いています。私が夫のことを「連合い」と書くのはなぜか? 息子はどれくらい成長したのか? がんになった連合いとの日常や故郷の福岡で暮らす父との再会、そして昨年他界した母とのことなどなど。30年近くイギリスに暮らしているので、私の家族観は日本の人たちとは少し違うものになってきているかもしれない。でも、イギリス風になりきっているわけでもないので、その「あわい」の部分が家族についての文章では出てきているかもしれません。

人生後半戦の試練は親の介護と親との死別ですよね。私は若い頃に日本を飛び出したので、親のことは妹にまかせっきりで偉そうなことはいえません。だけど、日本で常識とされている家族観とは、違う家族に対する考え方もあるんだよということを見せてくれたのはイギリスの人たちでした。この国では家族とはいえ、一人一人の「個」が優先します。たとえば日本では生活保護を申請すると、家族に扶養の照会が行くというのがずっと問題になってきましたよね。イギリスでは例えば大富豪の身内がいても、生活保護を受けられます。一人一人、別の人間であり、別の生活をしているという判断です。困っている人がいたら、家族ではなく、社会全体が助けるべきという考え方が基盤になっています。こうしたイギリスの環境で暮らしていると、日本では何でも家族の内部で処理しなさいと言われ過ぎ、制度もそういう設計になり過ぎている気がします。結果として家族でお互いの首を絞め合うようなことにもなりかねず、息苦しいと言う人が多いのもわかる気がする。

子育てにおいても、イギリスではもとより親は親、子どもは子どもという考え方が基本にある。もちろん子どもは愛しいけれど、愛しいからこそ自立させる。子どもは親から離れて暮らし始めますが、それが一般的な家族観なので「寂しい」とか「行かないで」とか、子どもに覆いかぶさるような人はいない。誕生日とかクリスマスといったイベントがあれば集う。たまに会って元気を確認し合えばそれで十分、バラバラの「個」の集合体が家族だという価値観です。

日本には「空の巣症候群」という言葉があるそうですね。せっかく自由な時間ができたのに子離れが寂しいと鬱々として過ごすなんて、こっちではないと思います。うちの息子もカレッジを終え、秋には大学進学のために遠方で暮らすことになりました。私は彼の前では「母ちゃんは寂しい」という顔をしていますが、その実、息子が巣立つ日を待っていたりする(笑)。自分だけの時間、万歳! って。子育て中は息子のために費やす時間が多くて、けっこうそれも楽しんでたつもりですけど、実は抑圧されてた部分もあったんだなと我ながら驚きます。息子が巣立ったら旅費の高いリゾートシーズンに旅行しなくていいじゃん、学校の休みに囚われる必要ないじゃん、って、すごい解放感があります。私、やっぱり「自由」っていうのが何より好きなんですよね。それを思い出す、って感じです。

危機感の先に希望がある

家事、仕事、育児、介護……。放っておいたら女性の人生は誰かのために生きることで終わってしまう。「ワンオペで大変」「毎日、忙しくて死にそう」って、もう言い飽きたのではないでしょうか? この状況を変えるために女性は声を上げなくては。それができたら日本はもう少し違う国になるのではないかなと思うのです。もっとも日本でそれをどう形にしていくのかは難しいところではありますけれど。「やれるか、やるべきかじゃない。もうやるしかない」みたいな、土壇場の危機感があれば、違ってくるんじゃないかな。

私は生きるために必死に働いてきました。息子が生まれてからも稼げる仕事を求めて保育士資格を取得し、貧困地域の無料託児所で働いた経験をもとに『子どもたちの階級闘争』という本を出版し……。行き当たりばったりもいいところなのですが。なんとかなるのが人生の不思議なところ。生きる力を与えてくれたのはいつの時も、なんとかしなきゃ死ぬという土壇場感でした。人が生きるために発揮する火事場の馬鹿力はあなどれないのです。サーッと頭が冴えて体が動き始める、後で考えると普段はできないような絶妙の決断を下していたりする、あの力ってどこから来るんだろうと思いますけど、人間にはそれが備わっている。あれは、一種の希望です。土壇場感は、危機感と繋がっていると思います。それは現実や物事をシビアに見つめるということでもある。家族の話とか、「ちょっといい話」みたいなことも書きましたけど、「時代や社会を見つめる」道具としても、このエッセイ集を読んでいただけるといいなと思います。足元のミクロな経験と、時代や社会といった大きなマクロは常に繋がっているものなので。

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