ジェーン・スー 17年前に感じた違和感は、いまなら立て板に水の如く説明できる。法律婚における名字の選択と私

イラスト=川原瑞丸
ジェーン・スーさんが『婦人公論』に連載中のエッセイを配信。今回は「珍しく無力感」。17年前に別れた男性と復縁したスーさん。結婚の話が出る中、20年前から抱いている違和感とは――

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言葉にできぬ違和感

あれは20年近く前。私には真剣に付き合っていた男がいた。一生一緒にいてくれや、とは思っていたが、それが法律婚というシステムに否応なく収束される常識に、言葉にできぬ違和感を覚えていた。

具体的には、一生一緒にいようとすると、私の名字がほぼ自動的に変わることがひたすらに解せなかった。なぜ私だけが?

女性の先輩にその話をしたら、「そっか、まだ結婚したくはないんだね」と、可愛い後輩を宥(なだ)めるような優しい呆れ顔で返された。いや、そういうことではないのに。

あれから幾星霜(いくせいそう)。私は51歳になった。当時の男はその後、「ほかに好きな人ができたんだ」と苦虫をかみつぶしたような顔で私のもとを去り、数年前、17年ぶりにケロッと戻ってきた。ウケる。

この男と別れたあと、私の未来は無限に広がり、彼もまた、私と一緒にいたら見られない世界をたくさん見た。当時の私には身がちぎれるほどのつらい経験だったが、結果的に双方にとって悪い出来事ではなかったのだ。

離れていた時間は相当だが、相変わらず気が合うので復縁した。さすがに今回は結婚するか? という話が出たが、やはり選択的夫婦別姓制度が整わないうちに法律婚をする気にはならない。

いまなら、あの頃は言語化できなかった違和感を立て板に水のごとく説明できる。私は家父長制を信用していないのだ。たかが“夫婦同姓”ではない。パートナーと対等意識の共有ができていたとしても、夫婦が同じ名字を持った瞬間から世間と共有される“夫の管理下にある存在”になることを蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っている。蛇のほうがずっと好きなくらい。

珍しく無力感を覚えたこと

先日、とあるテレビ番組に出演した。結婚観について質問されたので、法律婚には興味がないと答えた。すると、「お相手ができたら……」といったニュアンスを含む返答をされたので、パートナーはいるが、夫婦別姓を許さない法律婚には興味がないと伝えた。質問者は自身に内在する偏見にすぐさま気付き謝罪した。私はそれを受け容れた。ま、そういうことはよくあること。私にだってあるから気にしない。

後日、放送を観たら、「スーさんには結婚の意思がない」というテロップひとつで片づけられていたので噴き出してしまった。

結婚観がメインテーマの番組ではなかったし、テレビってそういうものだとわかって出演したので、怒ったり悲しんだりはしなかった。けれど、選択的夫婦別姓制度が導入されたら話は違ってくることは、視聴者には伝わらないだろうとうなだれもした。次の瞬間、相手の親が観たら悲しむのではという思いがよぎり、己に染みついた古い価値観に吐き気がした。

時を同じくして、父親が入院することになった。命に別条はないが、手続きにはなんやかんやと家族の存在が必要になる。つまり、私だ。私はひとりっ子だし、母はとうの昔に鬼籍に入っているから。

私やパートナーが病気になったら、お互いを家族と証明するものがない。事実婚について調べたこともあるが、法律婚をすれば一発で解決することを有効化するのに、非常に煩雑な手続きが必要になる。選択的夫婦別姓が当たり前の国に生まれていたら、こんなことで頭を悩まさなくて済んだと思うと、珍しく無力感を覚えた。

この話、思ったより長くなるので来月に続きます。

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