「ここまで小説に打ち込む作家はいない。稀有な人だ」戦争への憎しみと悔恨を胸に、心揺さぶる人間ドラマを紡いだ山崎豊子先生の素顔

エネルギッシュ、好奇心旺盛。世界を相手に堂々とわたりあった、日本が誇る山崎豊子先生の素顔〉から続く

 前編『運命の人』に続き、後編は『大地の子』の執筆に伴走した、当時「文藝春秋」で連載の担当デスクだった平尾隆弘(元文藝春秋社長)が綴る。小説の主人公・戦争孤児の陸一心は中国人教師夫妻に愛情深く育てられるが、文化大革命など歴史の荒波の中で苦難の道のりを歩み、日本と中国の間で揺れ動く。

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 情報閉鎖社会の中国での取材は極めて難航し8年にも及んだが、山崎先生は信念を貫いて、持ち前の行動力と度胸で徹底した取材を敢行した。

 また、本作の刊行後は、日本に暮らす戦争孤児の2世3世の子どもたちのために『大地の子』などの印税を寄付し、作家という枠を超えて教育支援を続けたことでも知られる。

主人公の筆舌に尽くしがたい運命を綴った超大作は、1995年、NHKで上川隆也主演でドラマ化されたのをご記憶の方も多いだろう。写真:文藝春秋写真部

★★★

一日中、電話の嵐

 山崎豊子先生と初めてお会いしたのは、1987年4月。「文藝春秋」の連載がスタートした直後のことでした。先生は「よろしう頼んますわ。私はひとつの小説に5年も6年もかけてるでしょ。『大地の子』が失敗したら、その苦労が全部パーになってしまうんよ」。そう言いながら右手を上げてパーの仕草をされました。おちゃめで愛嬌のある様子に、緊張がほぐれたのを思い出します。

 担当編集者になってから、先生が文字通り全身全霊で『大地の子』に向き合っていることを実感しました。取材と執筆に費やされた7年間、短篇小説もエッセイも書かないし、講演も対談もお断り。旅行やゴルフなどの娯楽は論外で、すべてが『大地の子』なのです。いきおい、昼夜を問わず頻繁に電話がかかってくる。当初ヘキエキ気味だった私は、1カ月もたたないうちに、「ここまで小説に打ち込んでいる作家はいない。先生は稀有な存在だ」と襟を正す気持ちになりました。

取材は普通1回。でも先生は違います

 先生は「取材の鬼」という定評があり、事実その通りなのですが、取材が2段階あることは知られていません。まず最初に小説の大枠に沿って、徹底的に取材する。取材したファクトを生かす形でストーリーを練り上げる。

 が、この先があるのです。ストーリーを練りながら、もっと面白い展開にならないかを検討する……もしこんな人物がいてこんな行動をしたり、こんな事件が勃発したら、小説が俄然盛り上がる……。で、そうした「望ましいストーリー」を可能にするようなファクトを探し出す。これが2度目の取材となります。先生がすごいのは、2度目の取材の結果、ストーリーを保証するファクトが見つからない場合、その話は捨ててストーリーを変更しないこと。事実の裏付けがない話は、たんなる空想であってリアリティに欠けるというのです。作品の迫力は、こうした取材と創作、現実と想像の往復運動によって支えられていると言えるでしょう。

先生の涙

 先生から学んだこと、教えられたことはたくさんあります。

 物語の前半、主人公である陸一心が、内モンゴルに追いやられ、黄書海という囚人に出会う。黄は日本から帰国した華僑(かきょう)で、一心が日本人だとわかると、母国語を知ることの大切さを説き、彼に日本語の読み書きを教えるわけです。

 一心が黄書海と出会うきっかけになったのは、黄が吹いていた口笛でした。先生は最初から口笛の曲を「さくらさくら」に決めておられたのですが、私はちょっと疑念を呈しました。「『さくらさくら』って“いかにも”すぎませんか? 何か他の曲を考えましょうか」と。すると「他の曲はあかん、『さくらさくら』やから良いんやないの」と一蹴されたのです。

 同じようなやり取りは、一心が日本を初訪問するシーンでも生じました。彼は信濃の満洲開拓団の人たちと一緒に富士山に行く。そして周囲の人たちの打った柏手(かしわで)で幼年時代の記憶がよみがえります。私は先生に、「富士山となると風呂屋のペンキ絵を連想しちゃう。長野の生まれなら、富士山より常念岳(じょうねんだけ)や御嶽(おんたけ)のほうがリアルじゃないですか」と申しました。先生は強い口調で「いや、富士山やないとあかん!」。

 先生は「意見なき者は去れ」がモットーで、いつもは「よう言うてくれた」となるのに、このときは「話にならん」という感じ。「ペンキ絵? けっこうやないの。私は芸術家やない、小説書きなんや。平尾さんはインテリのところがあるな」と言われました。考えてみれば、富士山が、誰もが納得する日本の象徴だから銭湯のペンキ絵になるわけで、ここは富士山じゃないといけない。

 他の山に変えるのは一種の気取りなのです。私は、小説の王道を教えられた気がしました。先生は口グセのように「私は作家馬鹿」と言っておられたけれど、ふと漏らされた「私は読者に向けて書いてるの。評論家にほめてもらうつもりはあらへん」といったセリフには、読者大衆と直結している強烈な自負がこめられていたのだと思います。

 こうした信念は、登場人物の描き方にも生かされています。「善と悪の振幅が大きければ大きいほど、ドラマとしての面白さが生れる」という先生の言葉は、どう書けば読者の心に訴えかける小説になるか、という問いへの答えではないだろうか。養父母に恵まれ大学を出た陸一心は「明」、牛馬のごとく酷使され文字も読めないまま死んでいく一心の妹・あつ子は「暗」。

 連載中、「中国側のさる筋」から何度も抗議を受け、たとえば「あつ子を虐待し病気になっても医師の治療も受けさせない養父母など、中国にいるはずがない」とクレームが来ました。先生は動じる気配もなく、抗議覚悟の上で書かれたあつ子の死の場面は、悲劇の絶頂と言えます。その場に一心と松本耕次(実の兄と実の父)が居合わせ、死んでいく妹を前に、生き別れになった家族が再会する。明暗の振幅が最大限に発揮された忘れられない場面です。原稿をいただいたとき、私は涙滂沱となり、先生にお電話したら先生も泣いておられました。

『大地の子』は、いま最も注目したい最良の教材

『大地の子』のタイトルだけで、もはや昔となった戦争孤児の悲劇的な物語だと受け取る方は多いかもしれません。でもそれは全くの誤解です。山崎先生は「現代の日本・現代の中国」を描こうとされた。この小説は、21世紀の現在起きている日中関係のさまざまな問題を理解する最良のテキストだと私は思います。たとえば第1章、かつて小説に描かれたことのない文化大革命の生々しい実態。あるいは日中共同プロジェクト「宝山製鉄(小説では宝華製鉄。2024年7月、日本製鉄は撤退した)」における、双方の不信。国交正常化から半世紀以上たったいまも、両国の関係は近づいたり離れたり。どうしてこのような行き違いが起きるのか。『大地の子』は大きな示唆を与えてくれるでしょう。


(『マンガ 大地の子』五巻収録の「担当デスクが見た作家・山崎豊子と『大地の子』」を改稿したものです。)

(平尾 隆弘/文春文庫)

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