エネルギッシュ、好奇心旺盛。世界を相手に堂々とわたりあった、日本が誇る山崎豊子先生の素顔

 今年1月2日、社会派小説で知られる作家・山崎豊子さん(1924~2013年)の生誕100年を迎えた。地元大阪をはじめ、展示会などさまざまな記念企画が行われている。『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』の戦争3部作をはじめ、『白い巨塔』『華麗なる一族』など、「これほど人生をかけて作品を生み出す作家はいないのではないか」と思わせるほど、執筆に心血を注いだ作家とは、一体どのような素顔の持ち主だったのか。

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 この度、執筆活動に伴走し、山崎先生を誰よりもよく知る担当編集者2人が、その素顔に迫った秘話満載のエッセイを特別公開。それぞれ『運命の人』『大地の子』の担当者だが、この2作品シリーズ(各4巻)は合計で累計700万部という大ベストセラーとなった。

 前編は、文藝春秋編集部時代に『運命の人』を担当した小田慶郎(現・ライフスタイル編集局長)が当時を振り返る。

後編へ続く

運命の人』(全4巻)は、戦後政治の闇に挑む新聞記者の愛と挫折、権力との闘いのドラマを描いた感動巨編。毎日出版文化賞特別賞受賞作。2012年に、本木雅弘主演でドラマ化(TBS系列)された。写真:文藝春秋写真部

★★★

ホテルでの重苦しい打合せ

 小説『運命の人』が動き出したのは、2000年12月。山崎豊子先生は76歳だった。

 前作『沈まぬ太陽』(新潮文庫)を書き上げられた直後から、「次は文藝春秋で」と、社はたびたび先生に執筆のお願いを差し上げていた。当初固辞されていた先生が、「これを最後の長編小説にしたい」と応諾されたのが、その年の春ではなかっただろうか。

 テーマは「メディア」となった。戦中から戦後にかけ、15年近くを毎日新聞大阪本社に勤められていた先生だが、新聞社などマスメディアを正面から取り上げた長編小説はまだ書かれていなかった。

 当初モデルにと考えた毎日新聞OBである著名なジャーナリストは、アメリカ在住。先生と秘書の野上孝子氏は、早速渡米し面談を重ねた。だが、高齢の同氏の体調もあり、断念せざるを得ず、失意のままの帰国となった。

 このまま年を越してしまうのだろうか──。年末、東京のホテルでの重苦しい打ち合わせの中で、ふと先生の口から名前が出た。「外務省機密漏洩事件の(元毎日新聞記者)西山太吉さんはどうしているのでしょうね」。

「驚くほど、強運の持ち主」

 野上秘書はのちに、山崎先生を「驚くほど、強運の持ち主」と表した(『山崎豊子読本』新潮文庫)が、まさにこのときの先生は“持っていた”。ものの15分で、西山氏が長い沈黙を破って最近雑誌のインタビューに応じていたことがわかった。それもなんと、わずか1カ月前だ。西山氏の自宅の電話番号もすぐわかり、先生はその場で電話をかけ、あっという間に面会の約束を取り付けてしまった。単行本の完結まで数えるなら、ここからあしかけ10年にわたる『運命の人』の旅が始まったのだった。

 私は入社して配属された週刊文春編集部時代から、何度か山崎先生の聞き書き(インタビューして談話原稿をまとめること)をしたり、北京の日本人学校での講演に同行させていただくなどしていた。

 40歳以上も年上であるのに、当時20代の自分よりはるかにエネルギッシュで、好奇心旺盛で、いつも小説のことを真摯に考えておられた。その様子に素直に心動かされ、大阪・堺市のご自宅を辞する際には、いつも元気をもらったような気がした。

中国最高実力者に全く物おじしない日本人作家

 97年、北京の日本人学校で行われた講演で思い出すのは、先生のユーモラスな「カニ歩き」だ。『大地の子』(文春文庫)の取材に尽力してくれ、先生が「恩人」と呼んだ胡耀邦総書記(当時)との会見の一コマを紹介されたのだが、日本人学校の教室が狭く、机と机の間を通るには横にならなければならないと訴えるため、すっくと立ちあがってカニのように横歩きする様を実演して見せたのだという。中国の最高実力者の前でカニ歩きとは! その様子を、講演の壇上でも再現され、笑顔でカニ歩きを見せる先生に会場が大いに沸いたのを覚えている(ちなみにカニ歩きを見た総書記は「あっはっはっ」と大笑したそうだ)。

 いつも徹底した取材や厳しい執筆姿勢が語られる先生だが、時に、大阪船場の老舗昆布屋で生まれたやんちゃな嬢はんらしさを垣間見せた。その“お茶目な素顔”は、親しい人や担当編集者の間ではよく知られていたと思う。

 のちに、担当となった『運命の人』の沖縄同行取材のときだったか、私が航空券の手配をしたことがあった。搭乗者の年齢が必要で、何気なく野上秘書に尋ねて購入した。すると次の打ち合わせのとき、先生に実年齢にしたのかと聞かれ、はいと答えると、

「それは失敗でしたね」

 一瞬、何のことか分からずぽかんとしていると、先生は恥じらうように目線をそらされた。そうか、たとえそれが飛行機の予約であっても、少しでも若くありたい──。なかば冗談であったのだろうが、普段の先生が見せることのない気持ちに、まったく思いが至らなかった自分に気がついた。確かに失敗だった。

小説の舞台・沖縄に対する特別な想い

運命の人』は、第一部(一巻~三巻)が主に東京を舞台とした外務省機密漏洩事件の顛末を描いており、第二部(四巻)が沖縄編となっている。

 ごく早い段階から、家族や仕事などすべてを失った主人公を沖縄に行かせることは決まっていた。だが、西山氏は沖縄に行ったわけではないから、元記者が沖縄でどんな人びとに出会って何をするのか、最後にどうなるのか、ゼロから構築しなくてはならない。なかなか構想は固まらなかった。

 先生には沖縄に対する強い思いがあった。それは『沈まぬ太陽』の取材中、思い立って長年行きたかった「ひめゆりの塔」を訪ねたことがきっかけだった。沖縄戦の渦中で命を落としたひめゆり学徒隊は、先生と同世代だった。彼女たちが戦場で死に直面していた時に、自分は何をしていたのかと、自問しておられた。時にその自省は厳しすぎるようにも思えた。

 2002年頃、沖縄取材を続けていると、先生に異変が起こった。脚の付け根に原因不明の疼痛があらわれるようになったのだ。それもかなりの激痛らしい。おそらく痛み止めなど服用されていたと思うが、それでも取材は続けられていた。米軍の上陸地点でもある本島中部の読谷村(よみたんそん)、南部の摩文仁(まぶに)の丘、平和祈念公園。移動する車内でしばしば痛みを訴えられながら、普天間基地が見える嘉数(かかず)の丘には肩を借りつつ登られ、チビチリガマや糸数壕にもできる限り近づいて取材した。対面取材となれば痛みのあるそぶりは見せなかった。沖縄戦当時の話を聞き、取材相手の手をとって涙を流した。

山崎豊子先生の取材の仕方

 いくつもの取材の現場に立ち会わせていただいたが、印象深いのは、やちむんの里(読谷村)にあるガラス工房での取材だ。戦後の琉球ガラスは米軍由来のコーラやビール瓶などを材料にして、いわばアメリカ文化を溶かして沖縄文化として再生しているところに興味を惹かれて行った取材だった。

 1300度にもなる窯からの熱気あふれる工房に入ると、山崎先生は作業しているスタッフの一人の近くに腰かけた。工房に話は通していたが、現場のスタッフは先生が誰で何をしに来たのか、あまり関心がない様子だった。じわりと汗がわいてくる中、先生はひとつひとつの手順について尋ね、相手をまっすぐ見ながら、また質問を重ねていく。すると最初は面倒臭そうに答えていたスタッフが、だんだん乗ってきた。ついには笑顔になり、

「こんなに聞いてくれるの初めてだから、面白くなってきた」

 と嬉しそうに言って、がぜん熱心に説明を始めたのだ。話を聞く先生の目も、きらきらと輝いているように見えた。

 それまでも、先生の取材にいつの間にか胸襟を開く人を何人も見た。不思議な力だと思っていたが、このときはじめて合点が行ったような気がした。相手をまっすぐに見つめて、心から興味を持って、話を聞く。シンプルでいて、実は難しい“魔法”だった。『運命の人』第二部第十六章には、このガラス工房での取材が生きていると思う。

病魔と闘いながら、生み出した作品

 病と闘いながらの執筆が続いた。2005年に「文藝春秋」で連載が始まったものの、途中で入院され、病室でゲラをいただいたこともあった。

 最近、先生や野上秘書と打ち合わせを重ねたご自宅の応接間を久しぶりに訪ねる機会があった。足を踏み入れた途端、自分でも驚いたことに、忘れていた様々な場面が鮮やかに蘇った。

 山崎先生も野上秘書もこの世を去られた。西山氏をはじめ『運命の人』の取材に協力してくれた方々の多くも、今はない。山崎先生がその身を削るようにして完成された作品が、読み継がれていくことを願うばかりである。

「ここまで小説に打ち込む作家はいない。稀有な人だ」戦争への憎しみと悔恨を胸に、心揺さぶる人間ドラマを紡いだ山崎豊子先生の素顔〉へ続く

(小田 慶郎/文春文庫)

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