「最高の喜びがパリにあった」パリパラ五輪の車いすラグビーで日本が米国を破り悲願の金メダル…なぜ逆転ドラマで歴史を塗り替えることができたのか?

パリパラリンピックの車いすラグビー決勝が2日(日本時間3日)、シャンドマルス・アリーナで行われ、世界ランキング3位の日本代表が48-41で同2位の米国代表に快勝し、6度目の挑戦で悲願の金メダルを獲得した。第1ピリオドで11-14と3点のリードを許した日本は粘り強いディフェンスでペースを取り戻し、新エースの橋本勝也(22、日興アセットマネジメント)を中心に次々と得点をゲット。2016年リオデジャネイロ、2021年東京両大会の銅メダルを超えて歴史を塗り替えた。

 優勝候補の米国にタフなディフェンス力で逆転勝ち

 夢にまで見た世界の頂点に立った選手たちに涙はなかった。
 4大会連続でパラリンピックに出場している池崎大輔(46、日興アセットマネジメント)が、車いすラグビー日本代表で初の女性選手の倉橋香衣(33、商船三井)が、そして新エースの橋本が、笑顔を輝かせながら至福の喜びを分かち合っている。
 米国に48-41で快勝し、金メダルを獲得した直後のフラッシュインタビュー。リオデジャネイロ、東京両大会に続いてキャプテンを務める池透暢(44、日興アセットマネジメント)が、12人の代表選手全員の思いを代弁した。
「目標としていたみんなの夢がかなった最高の瞬間、最高の喜びがここにありました」
 現地時間7月30日の1次リーグ第2戦で対戦し、45-42で勝利している米国と再び顔を合わせた決勝。前夜の準決勝で世界ランキング1位の豪州代表を、延長戦にもつれ込む死闘の末に52-51で撃破。初めて決勝に進出した日本はミスが目立ち、11-14と3点のビハインドを背負って8分間で争われる第1ピリオドを終えた。
 しかし、米国に傾きかけた流れを引き戻したのが、橋本をして「世界で一番」と言わしめる、タフで粘り強いディフェンスだった。池や池崎、橋本に加えて、障害が重いクラスに分類される乗松聖矢(34、SMBC日興證券)らがパスの出どころに次々と、何度でもプレッシャーをかけて米国のミスを誘発する。
 迎えた第2ピリオドの残り1分12秒。この試合で日本が初めてリードを奪った。米国の女性選手、サラ・アダムス(33)のパスを橋本が両手を突き上げるようにしてブロック。自らこぼれ球を拾ってトライし、23-22と逆転に成功した。
 第3ピリオドでも日本のタフなディフェンスが、一進一退の攻防が続いたなかで米国を消耗させる。残り2分31秒で32-30とリードを初めて2点に広げると、最後は35-32で最終ピリオドにつなげた。この時点で米国は1試合で4回取れる、時間を管理するうえで重要な30秒タイムアウトをすべて使わざるをえなかった。
 序盤戦で劣勢に立たされていたとは思えない試合展開を、池は車いすラグビー日本代表の歴史をかみしめながら、次のように振り返っている。
「僕たちがこれまで積み重ねてきた年月は、3点のリードに負けるものじゃないので。絶対にあきらめない思いで、1点、1点を追いついていこうと思っていました」
 パラリンピックの公開競技として、車いすラグビーが初めて採用されたのが1996年のアトランタ大会。日本でも翌1997年に統括団体が発足し、日本代表も結成された。しかし、初めてパラリンピックに臨んだ2004年のアテネ大会は6戦全敗。北京大会も7位に終わったなかで、本腰をすえた代表強化がはじまった。
 6歳のときに手足の筋力が徐々に低下する、難病のシャルコー・マリー・トゥース病に罹った池崎が初めて代表に選出されたのが2010年。交通事故で一命を取りとめるも左足を切断し、車いすバスケットボールをはじめていた池も、3位決定戦で米国に敗れたロンドン大会の戦いに感銘を受けて車いすラグビーに転向した。
 それでも、準決勝の壁を越えられない。リオデジャネイロ大会に続いて東京大会でも準決勝で敗れた直後。2大会連続の銅メダルを手にした池崎は、胸中に渦巻いていた悔しさを、必死に前を向くためのエネルギーに変えていた。

 

 

「目指してきた場所は金メダルでしたけど、いま現在の日本チームとして、3位か4位のどちらを取るのかと言われれば銅メダル。メダルなしで終わるよりも、チームとしてすごくいい結果につながったという意味では、僕たちは今日のコートでしっかりと、金メダル以上に輝けた。ここまで支えてくれた、たくさんの人たちに感謝したい」
 このとき、人知れず悔し涙を流している選手もいた。次世代エースとして期待されながら、東京大会の出場時間が10分あまりだった当時19歳の橋本へ、銅メダルを授与された表彰式後に池崎はこんな言葉をかけている。
「この大会を忘れるなよ。悔しかっただろうけど、今度は勝也の番だぞ。オレたちは期待しているから、頑張っていこうな」
 翌2022年4月に、それまで務めていた、生まれ故郷の福島・三春町役場を退職した橋本は、日興アセットマネジメントとアスリート契約を結んだ。池崎の後輩となり、競技に集中できる環境のもとで、バトンを託されたエースの座を歩みはじめた。
 池崎や池、さらにはアテネ大会から6大会連続出場となる島川慎一(49、バークレイズ証券)らの先駆者たちが必死に築きあげてきた土台のうえに、生まれたときから両手の指や足に抱えていた障害を乗り越え、自他ともに認めるエースに成長した橋本が、コート上で群を抜くスピードを日本代表に融合させた。
 最後を締めたのも橋本だった。残り6.9秒。相手のパスをインターセプトした橋本が、拾ったボールをアリーナの天井を目がけて、美しい放物線を描かせた間に第4ピリオドの終了と、金メダル獲得を告げるブザーが鳴り響いた。
 感極まったのか。それまで笑顔で覆い隠していた涙を、橋本はフラッシュインタビューの間にたまらず流している。
「世界一の選手になるために何が必要なのか、何をすべきなのか、ひとつひとつ課題をクリアしていったことでいまの結果があると思いますし、自分一人の力ではここまでこられませんでした。最高のチームメイト、そして普段の練習を支えてくださるトレーナーの方々といった、自分の周りの方々に本当に感謝したい」
 男女混合で争われる車いすラグビーは障害の程度が重い順に、0.5点から3.5点の持ち点が与えられ、コート上でプレーする4人の合計を8点以内に収めなければいけない。ただ、女子選手が起用されている間は、合計持ち点の上限が8.5にアップする。
 東京大会に続いて出場した倉橋の持ち点は0.5で、献身的なディフェンスで貢献し続けた重松は1.5。いわゆるローポインターと呼ばれる選手が頑張る分だけ、3.5の橋本に象徴される、障害の程度が軽い選手を起用できる余地が生まれる。歴史と選手個々の努力のすべてを融合させ日本が、悲願の金メダル獲得とともに歴史を変えた。

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