「高校野球の世界の人たちってゆるやかに、でも、みんなちゃんと洗脳されている感じがするんです」ふたりの作家が語った高校野球への逡巡と違和感<早見和真×中村計>
今年も熱戦いが繰り広げられた夏の甲子園。この春、16年振りに高校野球小説『アルプス席の母』を上梓した小説家の早見和真さんと、丸刈りや体罰などの問題に切り込んだ『高校野球と人権』を上梓したノンフィクションライターの中村計さん。ともに高校時代は野球部に所属していたふたりが、“高校野球的なもの”への逡巡と違和感を語りあった。
「一周回って、『熱闘甲子園』になるわ、この本」
中村 この春、早見さんはデビュー作の『ひゃくはち』以来、16年ぶりに『アルプス席の母』という高校野球小説を上梓されました。私の中で早見さんは、いわゆる高校野球的なものをすごく嫌悪している作家なんですよね。
でも、もともと神奈川の超強豪校で野球をやっていたこともあって憎み切れずにいる。だから、書けるというか、そこで書いているわけですよね。
早見 そこへいくと、僕の中では高校野球に対する思いはだいぶ変化しているのだと思います。確かに高校野球を憎んでいる時期はありました。恋焦がれ、思いもプライドも時間も、すべてを捧げてきたのに、最後まで振り向いてもらえなかったという感覚があって。
『アルプス席の母』は2022年7月から2023年12月まで産経新聞で連載していたものに加筆・改稿したのですが、書き始める前は、アンチ朝日新聞的なもの、アンチ『熱闘甲子園』的なものになるだろうと考えていたんです。ただ、半分ぐらい書き進めたとき、僕、けっこうちゃんと高校野球を応援しているなと気づいた瞬間があって。担当者にも「一周回って、『熱闘甲子園』になるわ、この本」と。
中村 この小説の主人公は母親と言っていいわけですよね。早見さんも一人娘が中学生になったばかりで、だんだん高校生の親に近づいてきています。『ひゃくはち』の主人公は、ある意味、高校時代の早見さんだったので、目線がぜんぜん違うんでしょうね。
早見 そうですね。思春期に突入した娘との付き合いの中で、高校野球の見方も変わってきた気がします。これまでは高校球児がインタビューに答えているシーンとかを見ながら、いかにもみたいなことを言ってると「ホントか、それ」と心のどこかで思っていたのに、ちゃんとグッときている自分がいたりして。
中村 今年の夏も、けっこう頻繁に甲子園の中継を観られましたか。
早見 そうですね。昔よりははるかに観るようになりました。それこそ高校を卒業してから『ひゃくはち』を書き上げるまではまったく観なかったですし、書き終えたあとも、少しは観られるようになるのかなと思ったけどそうでもなかったので。恨みが晴れていなかったというか。
僕にとっての高校野球って、生まれ故郷に似ているんです。「こんなところ二度と戻ってくるか!」って飛び出して、でも、何かあると帰っていって。それなりに年をとってきたら恋しくなってくるという……。ダサいんですけど。
甲子園を恨んでいる人の方が多いに決まってる?
中村 早見さんの小説を読んでいてつくづく思うのは、テレビや新聞を含めてノンフィクションの作り手が生み出す高校野球の物語って、本当にごく一部、ごく一面でしかないんだなということなんです。
以前、早見さんに「甲子園を恨んでいる人のほうが多いに決まってるじゃないですか」と言われて、ハッとしたんですよね。
僕らが主に取材対象者としている人たちって、甲子園に出た人だし、もっといえばレギュラーがほとんどなんですよ。そう考えると、われわれは高校野球の何を見てきたんだろうというジレンマが湧いてくるんです。
たとえば試合後、ミックスゾーンで待機しているけど、誰も話を聞きにこない背番号ふたケタの選手や、背番号すらついていない選手たちのほうに本当の物語はあるんじゃないかなと思ったり。
『ひゃくはち』は、まさにそうだったわけですよね。『アルプス席の母』での、高校生の母を描くという発想もノンフィクションではありえないのかなという気がしてしまいました。
早見 『アルプス席の母』を書くにあたって、甲子園に出場経験のある全国の高校球児のお母さん方、20人ぐらいにインタビューをしたんです。ひとつひとつのエピソードは本当におもしろかったんですが、それをリアルなインタビュー集としてまとめても、何かを生み出せそうなイメージは持てませんでした。それこそ『熱闘甲子園』的というか、記号的な母と子の物語として捉えられてしまいそうな気がして。
中村 そこはノンフィクションの壁というか、難しさですよね。
早見 中村さんと話していると結局、この話になってしまうんですけど、高校野球の世界の人たちって、ゆるやかに、でも、みんなちゃんと洗脳されている感じがするんです。
こういう質問をされたら、こういう答え方をする。こういう問題が生じたら、こう解決する。そんな正解めいたものが確固としてあって、みんなそれにすごく忠実で。選手や指導者たちだけじゃなく、親もそうなんです。
これはぜんぜん悪口じゃないんですけど、大きな意味では、中村さんもその洗脳の中にいる人だと僕は思っていました。でも、ここ数年は、中村さん自身に「自分は洗脳されているのではないか」という自覚が芽生えてきて、そこにすごく苦悩している感じがしていました。
その結果、出てきたのが今回、中村さんが出版された対談集『高校野球と人権』だったんだろうなと捉えています。ここには高校野球への逡巡がすごくちりばめられていて。「これまで丸刈りに疑問を抱いたこともなかった」という言葉も、まるで懺悔のように読めてしまいました。
「えっ? おまえら、いつ監督を許したの?」
中村 この本の中には早見さんの言葉も出てくるんですが、それとは別にもうひとつ、名前は出さなかったのですが、私は〈ある人は日本全体が「高校野球は素晴らしいものだという集団洗脳にかかっているんだ」と話していました〉としゃべっているんです。実はこの中の「ある人」も早見さんなんです。
早見 すぐに気づきましたよ。
中村 早見さんは、いわゆる高校野球的なものに対して、拒絶から寛容に傾いてきていて、私は肯定から否定に傾いているということなのでしょうか。
早見 いや、否定ではないと思います。あくまで、逡巡ですよ。果たして、このままでいいのか、という。その迷っている感じがいいんです。このことはまだ聞いたことなかったと思うんですけど、中村さんは高校時代、野球部で理不尽な目にも遭ったわけですよね。それでも卒業するとき、高校野球はいいものだという感覚のままでいられたのですか。
中村 まったくいい思いをできなかったので挫折感はありましたけど、そこまで否定的ではなかったと思います。早見さんのように本気でプロ野球選手を目指していたのに高校で補欠に甘んじたというほどの大きな挫折でもなかったですし。早見さんは高校時代、すでに恨みでいっぱいだったわけですもんね。
早見 高校野球というよりは、その周りを取り巻く大人たちに対する恨みだった気がします。『高校野球と人権』を読んでいて、いっぱい思い出しましたもん。あれが誰だったのかは覚えていないのですが、僕を名前でなく「おい、補欠」って呼んだ大人の顔、あの揺るぎのない表情、いまだに鮮烈に覚えています。
中村 私の高校は公立だし、弱小野球部だったので、そこまで嫌な大人はいませんでしたね。そういう意味では、やはり『ひゃくはち』も『アルプス席の母』も、いわゆる甲子園常連校で野球をやった経験のある早見さんにしか書けないのだと思います。
早見 すごく恥ずかしい話をするんですけど、高校時代、近しいチームメイトも僕と同じように野球を恨んでいたと思うんです。でも、33歳ぐらいのときかな、一番仲の良かった当時のチームメイトから電話があったんです。
そこで「今度、監督とゴルフ行くから、おまえも来い」と。僕、それが衝撃だったんですよね。えっ? おまえら、いつ許したの? って。47歳になった今ならわかるんです。33歳は物事に折り合える程度には充分大人なんだと。でも、当時の僕は本当にショックだったんです。
(#2に続く)
撮影/下城英悟
08/24 11:30
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