「皆さんに少しでも感動を与えられたならうれしい」全米シニアオープン惜敗の藤田寛之が帰国会見で語った感謝

米シニアメジャー第3戦「全米シニアオープン」のプレーオフで敗れ、惜しくも2位に終わった藤田寛之が羽田空港に到着。マネジメントの芹沢インターナショナル社にて帰国会見を行った。

藤田寛之は1969年生まれの55歳

◆米国男子プロゴルフ シニアメジャー第3戦<全米シニアオープン 6月27~30日 ニューポートCC(ロードアイランド州) 6954ヤード・パー70>

 米シニアメジャー第3戦「全米シニアオープン」のプレーオフで敗れ、惜しくも2位に終わった藤田寛之が羽田空港に到着。マネジメントの芹沢インターナショナル社にて帰国会見を行った。藤田のコメントは以下の通り。

藤田寛之(右)と師匠の芹澤信雄 写真:日本プロゴルフ協会提供

藤田寛之(右)と師匠の芹澤信雄 写真:日本プロゴルフ協会提供

「本当にこの(出迎えと会見の)サプライズは予想していなくて、このまま『日本プロ(ゴルフ選手権)』の会場(富士カントリー可児クラブ 志野コース〈岐阜県〉)に急いで行かなくてはと考えていたので、いま、この会見が信じられないという感じです」

「昨日の5日目が終わってから、SNSとかでいろいろメッセージをいただくようになってきて、非常に応援が伝わるようになりましたが、終わってみて、残念ながら本当は優勝できたらよかったんですけど、2位となってしまったんですが、自分が驚きだったのは、皆さんから『感動』という言葉をたくさんもらって、自分は必死にゴルフをしていただけだったんですけど、そういう風に見ていただけたんだなあと思えて、それがプロとして一番うれしかったです」

「正直、残念な気持ちが一番ですね。その理由としては3日目、4日目の途中まで首位だったということと、そのストローク差とか状況を考えて、勝てる可能性を感じられる状況がありました。少しびっくりしたのはその4日目がなくなってしまったということで、通常1日で済む、トップで迎える最終日が2回も来てしまったということ、しかも2回目がショートバージョンだったということで、正直5日目はやはり硬くなってしまった」

「そのうち割り切っていったら、通常通りに行けたんですけど、プレーオフになってしまって、それでもよくプレーオフに残れたなという最終日のラウンドだったんですけど、そのプレーオフもメジャーの会場で2人だけのプレーということで不思議な感覚がありました。終わってみて、残念で悔しい思いは30分くらいで、あとはよくよく考えたらよく頑張れたんじゃないかなと思えるようになりました」

「そこからSNSとかをもらって、そこに『感動』とか『ありがとう』という言葉をたくさんいただいて、びっくりしました。ここで今日帰ってきて、またびっくりしています。自分はゴルフをしていただけですが、それがこうして皆さんに少しでも感動を与えられることができたならば、うれしいです。本当にありがとうございました」

 米シニアメジャー第3戦「全米シニアオープン」第4ラウンドは悪天候により順延になった。藤田は翌日の月曜日に残りの8ホールを後続に3打差をつけた状態で11番からプレー。出だしの11番でティーショットを深いブッシュに入れると、このホールをボギーとし、続く12番、14番でもボギーを叩いた。

 結局、第4ラウンドを3バーディー、4ボギーの「71」とし、通算13アンダーで並んだ51歳のリチャード・ブランド(イングランド)とのプレーオフに突入。4ホール目でパーを逃した藤田に対し、ブランドがパーで上がり勝負がついた。

 米シニアメジャー優勝となれば、2013年「全米シニアプロ」を制した井戸木鴻樹に次いで日本勢2人目の快挙だったが、もう一歩のところでタイトルを逃した。

藤田寛之(ふじた・ひろゆき)

1969年生まれの55歳で出身は福岡県。専修大を経て1992年にプロ入りし、97年に「サントリーオープン」でツアー初優勝。最終戦の「ゴルフ日本シリーズJTカップ」で史上初の3連覇を飾った12年は、年間4勝を挙げて賞金王を獲得した。19年に50歳となってからもレギュラーツアーで活躍し、23年連続で賞金シードを確保。22年「スターツシニアゴルフトーナメント」でシニアツアー初優勝。同年8月「マルハンカップ」でシニア2勝目。23年「日本シニアオープン」でシニアメジャー初優勝。24年の米シニアメジャー「全米シニアオープン」ではプレーオフで敗れ惜しくも2位に終わった。葛城ゴルフ倶楽部所属。

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