なぜ日本中が「びわ湖毎日マラソン」に注目? 1988年、瀬古利彦の苦悩


瀬古利彦は、プレッシャーを感じながら、びわ湖毎日マラソンに出場した

 2021年2月28日、今年で76回目を迎える「びわ湖毎日マラソン」が、その歴史の幕を閉じる。

 戦後すぐの1946年10月に全日本毎日マラソン選手権として第1回が大阪で開催され、その後は開催時期を春に変更して、1962年の第17回からは滋賀県のびわ湖畔に舞台を移した。1947年初開催の福岡国際マラソンを上回る、国内で最も歴史のある大会だ。

 来年からは、2月最終日曜日に開催日が変更になった大阪マラソンと統合されることになっている。

 その長い歴史の中で、最も注目されたレースのひとつに1988年の第43回大会が挙げられる。この大会には、瀬古利彦(当時・エスビー食品)が、同年のソウル五輪代表の3枚目の切符を獲得できるかが懸かっていた。

 1970年代終盤から80年代にかけては瀬古を初め、宗茂・宗猛の双子兄弟などの登場で日本男子マラソンが「世界最強」と言われた時代だった。その中で、五輪代表選考大会は12月6日の「福岡国際マラソン」、2月14日の「東京国際マラソン」、3月13日の「びわ湖毎日マラソン」の3つだった。一方ソウル五輪へ向けては、「五輪候補選手及び強化指定選手は全員福岡国際マラソンに出なくてはならない」と明記がされていた。

 それ以前から選手や指導者たちの暗黙の合意として、12月の第1日曜日に開催される福岡マラソンの順位で代表を決めることになっていた。実質「福岡一発選考」が採用されていたのだ。

 理由としては、一番早く開催される大会で出場を決めれば、翌年の五輪へ向けてより長く準備期間を取れるという利点があったからだ。

 ボイコットで出場できなかった1980年モスクワ五輪は、福岡で1位から3位になった瀬古と宗茂、宗猛兄弟が代表になり、1984年ロサンゼルス五輪も福岡1位の瀬古と3位の茂、4位の猛がすんなり代表に決まっていた(2位はタンザニアのジュマ・イカンガー)。

 ソウル五輪代表も当たり前のように福岡で決まることになっていたが、瀬古が大会直前の11月24日に左足腓骨剥離骨折で欠場を発表。すると、陸連首脳部の「メダルを獲るために瀬古は必要な選手」という考えもあり、27日には「福岡の2位までを内定として、残り1枠は東京とびわ湖が終了してから決める」と選考方法の変更が発表され、瀬古への救済措置だと批判の声が上がった。

 前年のアジア大会を2時間08分21秒で圧勝していた中山竹通(たけゆき/当時・ダイエー)の、「瀬古さんは這ってでも出てくるべきだ」という発言も大きく取り上げられた。

 その福岡国際マラソンは、気温7.5度でみぞれ混じりの強い雨が降る中でスタート。中山は怒りを力に変えて爆走した。15kmまでの各5kmを14分30秒台で突っ走り、早々と独走態勢に入った。当時の世界最高記録(2時間07分12秒)を大きく上回るペースだった。中間点通過は1時間01分55秒で、2020年の東京で大迫傑が2時間05分29秒を出した時の通過を5秒上回っていた。これは、現在の世界トップレベルでも通用する走りだ。

 中山は、終盤こそ冷たい雨の影響で失速したが2時間08分18秒で見事優勝。2位は2時間10分34秒の新宅雅也(当時・ヱスビー食品)、日本人3番手は2時間11分36秒の工藤一良(当時・日産自動車)という結果だった。

 レース後、強化委員会は直前に決めたとおりに、優勝した中山と2位の新宅の2名を、ソウル五輪代表として日本陸連理事会への推薦を決めた。

 そうした状況で迎えた1988年3月13日、びわ湖毎日マラソンが開催され、マスコミはレース前から瀬古を追いかけていた。

 スタート時の気温は、前日までの涼しさから一転する16.5度。強力なライバルがいない中で瀬古は、5kmを15分前後のペースで走り、12kmからは独走状態。中間点は1時間03分45秒と、代表確定の重要条件である2時間10分切りも可能に思えた。

 だが後半になると18度まで上がった気温と日差しに苦しめられた。30kmまでは何とか15分台のペースを維持したが、35kmまでが16分00秒になると40kmまでの5kmは一気に17分01秒まで落ち、2時間12分41秒でゴール。

 ラスト2.195kmは7分56秒と、これまでの瀬古では考えられない遅いタイム。2位に2分51秒差をつける圧勝だったが、すべての人を納得させられる結果とは言えなかった。

「瀬古は強いんだ、ソウル五輪に必要なんだということを見せたかった。昨日までは2時間8分台を出そうと考えていたが、今日は暑かったので2時間10分台に切り替えた」

 レース後にこう話した瀬古は、びわ湖に向けて日本最高記録(2時間07分35秒)も視野に入れる練習をしてきていたが、準備期間が短い中でのギリギリの仕上げだったため、気温が一気に上がった悪条件では力を発揮できなかった。さらに、持ちタイム2番手の選手が2時間11分10秒で、「10分切りのためには早くから独走しなければいけない」という気負いも後半の失速につながった。

 結局、優勝したとはいえ、福岡で日本人3位の工藤や、2月14日の東京国際マラソン日本人トップの仙内勇(当時・ダイエー)の2時間10分59秒にも劣る結果になった。

 所属チームの合宿所でレースをテレビ観戦した工藤は、この結果を受けて「過去の実績ではなく、現在の力を判断してほしい」と話したという。しかし、3日後の16日の強化委員会は瀬古の実績を評価して代表に内定。19日の理事会で正式決定した。瀬古にとっては11月15日に負傷してからの、苦悩の126日間だった。

 12月の福岡をきっかけに数々の議論が生まれ、日本中の関心が最も高かったびわ湖マラソンだった。

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