栄光誇らず努力も見せず=やんちゃな男の色気―故北の富士さん

死去したことが20日に分かった北の富士勝昭さんを取材し始めたのは、千代の富士が横綱になった頃だった。稽古場に親方の姿はない。やがてジョギングから帰ってくる。親方衆のダイエットの先駆けだった。腹筋運動をしながら弟子の稽古をチラチラ。ツボを押さえて一言。力士をその気にさせるのがうまかった。
ダンディーで新しいもの好き。粋でやんちゃな男の色気。力士、親方、そして解説者としても脚光を浴びた。まばゆいほどの相撲人生だが、たどれば波乱万丈だった。
横綱千代の山に誘われ、14歳で入門した。北海道の生家は事業に失敗し、「帰っても飯が食えんから、つらくても帰ろうとは思わなかった」。大関の時、千代の山が引退し独立するのに同行。当時は分家ご法度の出羽海部屋から破門された。ついていくか残るか、苦渋の決断だった。
横綱昇進の翌1971年、ライバル玉の海を失う。虫垂炎で入院中の急死。「玉ちゃん」と号泣する北の富士さんの姿が、テレビから茶の間に流れた。
98年、役員選挙の混乱に嫌気が差して相撲協会を退職した。将来の理事長候補にも挙がっていた頃だ。「正直、残っていればなれたかもしれん。境川理事長(当時、元横綱佐田の山)からも1期だけ我慢しろと言われたが、もういいやと思ったんだ」。いかにも北の富士さんらしい。
素顔は情に厚くて古風。解説席にはよく着物姿で座った。スポーツ紙のコラムは自分で書いた。記者より早く、デスクが直すところがなかった。他社からも誘われたが、千代の山時代から縁のある社との関係を守った。陽気なイメージは「涙もろいところを見せないうちに、先に明るく振る舞っちゃえと思った」結果でもある。
「稽古しないで勝つのが一番格好いいんだ」と言うほど、努力する姿を見られるのも嫌い。酒席では過去の栄光など誇らず、話題はもっぱら自らの失敗談。現役時代、知人にもらった拳銃が実弾入りの本物で、慌てて川に捨てたのがばれて警察に呼ばれた。引退相撲で断髪後にタキシードで土俵へあいさつに上がり、歌を披露して協会から叱られた。理事会の日を忘れてゴルフに行った。
山ほどある逸話を、面白おかしく語り、座を盛り上げてから言った。「俺は絶対に君たちより先に死なないぞ。後で何を書かれるか分からんからな」。何を書いても、雲の上で笑って許してくれそうな顔で。(元時事通信社・若林哲治)

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