【齋藤彰俊ヒストリー《10》】三沢光晴との出会い…11・17愛知県体育館「引退試合」

三沢光晴さん(右)と齋藤彰俊(写真は2006年1月8日)

 プロレスリング・ノアの「TEAM NOAH」齋藤彰俊が17日に愛知・名古屋市のドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で引退する。ラストマッチは丸藤正道と対戦が決定した。スポーツ報知では、波乱万丈だった34年あまりのプロレス人生を「齋藤彰俊ヒストリー」と題し引退試合の17日まで連載。第10回は「三沢光晴との出会い」

(福留 崇広)

 1998年。齋藤は「ハングリー精神を取り戻す」ために新日本プロレスを退団した。安定した生活を失う危険もあったが妻は理解してくれた。

 「彼女は、やりたいことやればっていう感じでした。それは、とても自分にとってありがたかったです」

 結婚は、プロレスラーとしてデビューする前の「愛知県スポーツ事業団」に勤めている時だった。

 「高校の時に出会いまして彼女は(愛知県の)淑徳学園の水泳部でした。自分が彼女にあこがれて、それから毎年アタックしたんですが5年間、ふられ続けました。それで6年目にアタックした時にお付き合いをすることになって交際が始まりました」

 プロレスラーになるために事業団を退職した時も受け止めてくれた。家族の支えが齋藤にとってありがたかった。新日本を退団し次の仕事に決めたのは名古屋市内での飲食店経営だった。料理は、高校、大学時代の寮生活で調理指導を受けており腕に自信があった。そして、出店した場所は東区内の駅から遠い場所にした。

 「物件を探した時にすべての不動産屋さんに『この場所で飲食店は絶対にお客さんは入りません』と言われたので、『だったら、ここでやってやろう』とそこに決めました。これも自分なりのハングリー精神をかき立てる行動でした」

 店は、ビルの2、3階を借りた。名前は「南国が好きなので」との理由で「ココナッツリゾート」とつけた。昼はランチ、夜はバーとしてフル回転で働いた。

 「店に上がる階段がブルーライトが点灯して怪しい雰囲気でした。ただ、その階段を昇ってドアを開けると『南国が広がるよ』というイメージで店内にはヤシの木も置きました」

 自慢のメニューは「南国カレー」「ココナッツプリン」。南国の楽園を目指した店だったがオープン当初は閑古鳥が鳴き、経営はまるで北風が吹き込むような極寒だった。

 「昼は、5、6人。夜は誰も来ない日もありました。それはそうですよね。駅から遠いし、なんだか怪しい階段じゃ入ろうと思わないですよね。それでランチをやめて、朝から夕方まで産業廃棄物のアルバイトをやりました。誰も自分のことを知らなくて、プロレス時代のTシャツを着た時には働いていた人に『兄ちゃん、プロレスファンか!』と言われたこともありました」

 昼はアルバイト、夜はバーで働いた。地道な努力が徐々に実を結ぶ。口コミを中心に客が入るようになったのだ。

 「お酒を800種類ぐらい入れていたので、他店のバーテンダーの人が仕事終わりに飲みに来たりして『面白い店がある』と口コミで広がって、お店が軌道に乗ったんです」

 経営が順調になった時、ひとつの決断をする。

 「ハングリー精神を取り戻すために、あれほど条件が悪い所に店を出して、何とか生活ができるところまで上がってきた今なら復活していいだろうと思いました」

 時は2000年夏だった。プロレスラーとして再びリングに上がることを決めた。20世紀最後の年。プロレス界では大激震が起きていた。99年1月にジャイアント馬場が亡くなった後、全日本プロレスの社長を務めていたエースの三沢光晴が6月に離脱した。大量の選手、スタッフが三沢と行動を共にし新団体「プロレスリング・ノア」を設立。8月5、6日にディファ有明で旗揚げ2連戦を行った。復帰を決意した齋藤。ノアを旗揚げした三沢。運命の糸がからむ。

 「当時の2大メジャーが新日本と全日本でした。その全日本から三沢さんたちが大量離脱してノアが誕生しました。自分は新日本でやらせていただきましたので『二大メジャー団体を体感せずにプロレスは語れないんではないのか』と思い、ノアでやらせていただきたいと思いました」

 90年代のプロレス界の中心は新日本プロレスの「闘魂三銃士」と全日本プロレスの「四天王プロレス」だった。新日本では、橋本真也武藤敬司蝶野正洋の「三銃士」とはシングルで対戦した。今度は三沢が追求した「四天王」を体感したかった。

 

 「四天王プロレスは、ゾンビというイメージを持っていました。すごい角度で落ちたり技も延々と続き試合時間も長い。だけど、その過酷な中でも立ち上がってくるすごさを感じていました。攻めの新日本と受けの全日本。新日本でも受けの部分は教えていただきましたが、四天王の受けは、どういうものかわからなかったので、やってみたかったんです」

 ノアで闘いたい気持ちは募った。ただ、三沢とはまったく面識はなかった。齋藤は直談判を思いつく。三沢のスケジュールを調べると試合のPRで名古屋の東海ラジオを訪問することを知る。ノアの事務所に電話をして三沢と会う許可を得た。

 「東海ラジオにいらっしゃった三沢さんにお会いさせていただいて直接、『ノアでやりたいんです』とお願いしました。三沢さんは、立ち止まっていただき『そう。気持ちはわかった。また連絡する』と返事をしていただき、そのままお帰りになられました。振り返ると立ち話で2、3分ぐらいだったと思います。言葉もそんなに多くありませんでした。ただ、その時、自分の中で何か言葉にできない不思議な感情がこみ上げてきました。わずかな時間の立ち話での初対面だったんですが『この人の下でやってみたい』と思ったんです。これまで新日本でも子供のころから憧れていた選手とお会いしましたが、そのすべての方々とは何か違う雰囲気を感じました」

 後日、三沢から電話で連絡が入った。

 「三沢さんには『まずはテスト』とおっしゃっていただきました」

 テストに指定された大会は10月11日、愛知県体育館。プロレスリング・ノアに齋藤彰俊は初参戦する。(続く。敬称略)。

ジャンルで探す